東亜子が殺害されるまでに、接した肉親は、小倉でラッキーとちょうちんにより、餓死させられた祖母です。
裏日本気候の小倉の冬は寒く、暗かったです。5歳だった私は祖母と一緒に寝ていました。子供でしたから、その時は、わかりませんdねしたが、確認すると、昭和23年です。餓死させたことはちょうちんが気になっていたらしく、私どもが結婚した直後、妻に 「××(ラッキーのこと)さんは、,『働くものが食べるんだ』と、言って、食べていた」と、弁解がましく、祖母の配給を盗って食べたことを言っていたそうです。
この祖母は、東亜子が殺害されて、実の母に会うまでに接した肉親です。
アルバムを見ながら長崎・眼鏡橋の写真を指さし「五日、ここへ連れて行ってあげるからね」と言う言葉が忘れられません。
これから程なく祖母は息絶えました。幼児と言ってもいいくらいの私はこの言葉から何日後であったからわかりませんでした。寒い冬でした。小倉の社宅には火鉢が一つで、寒かったことが記憶に残っています。
四国の本家や祖母の実家ではラッキーの存在を知りませんでした。というのは、祖母は阿波の田舎から、福岡の都会に出てきて、祖母の兄だったヤクザのところに出かけて、そこで、襲われたのです。
ですから、ラッキーは祖父の子ではないのです。
ラッキーはこの祖母のことを私に何度も何度も愚痴めような、言い訳めいたように話しました。
「ばあさんには、よく、蹴られた! おれを見ると、ものも言わずに蹴るんだよ。見るたびにそうなんだから・・・横になっているものなら、そりゃ・・やってらんかったよ」と、・・・
つまり、祖母は、ラッキーを最初から嫌悪していた。
このことを妻に話すと、先の戦争で、外地から引き揚げてきた話として、女性が襲われて、引き揚げてきてからの様子を聞いた話として、引き上げの途中で襲われて生まれた子のことを話した。
「おばあちゃん、かわいそうだったわね。『女性は悲しくて、襲われて生まれた子が、憎むべき男の面影を写しのが生まれるんだよ』って、言っていたのよ。まさにその通りだわね」と、
ラッキーは自分が蹴られたのを恨みに思ったのだろう。で、配給を奪ったのか?
祖母は美人の里に生まれて、そんこでも評判の美人であったそうだ。田舎から出てきて何もわkらない祖母が物珍しくふらふらしていたら、人さらいを生業にしていたブン(ラッキーの父)が襲うのは成り行きだったのだろう。
これが藤田小女姫殺害に至る最初の出来事だったような気がする。