藤田小女姫殺害事件は私が50歳の時でした。誕生日の関係で姉は56歳でした。
その時まで、私は戸籍通りに、ラッキーとチョウチンの子で、姉はラッキーと彼の第一妻のこであるから、つまり、腹違いの姉と弟だと思っていました。
小学6年まで、福岡の炭鉱で過ごした私を福岡の方は村のほとんどが、ラッキーとちょうちんの子ではなくて、どこからか連れてきた子であるとご存知でした。
そのことを本人である私に行ってくれる方はおりませんでした。
ただ、私に「おとうさんやおかあさんは好きか?」と、謎をかけてくる方がおられたことは覚えています。
でも、私は答えなかったように思います。
姉と私は5.5歳の差がありますから、当然、姉は知っていたわけです。でも、ラッキーんぽ第一妻に「おかあさんとよべ!!」と、暴力沙汰で、迫られたようです。
占い師として、世に出た後、ラッキーの第一妻は東亜子の母として人前に出たことはなかったようです。
事件後、数少ない第一妻にあった方に「東亜子の母親はどんな人でしたか?」と、伺うと、なにか、言いにくそうに「ちょっと ねぇ~、 なんか外国人のようでした。それに 話がぁ・・・」と言われました。
私は、ラッキーを思い出し、なんとなく理解できました。
ラッキーはおそらくロシア人との混血でしょうから、白人様のマスクでした。
ラッキーの周りは白人みたいな顔をしたのが多かったからです。これには訳があって、明治まで遡ります。
福岡にはもちろん、ほぼ、日本全国と言っていいくらい調べて歩きました。
その結果、ようやく、自分は誰であるか、わかりました。
そのときまで、犬猫と同じであったのです。叔父だと思っていたのが兄であったり、東亜子の他に腹違いの姉がいたり、父違いがいたりでした。
で、産みの母だと思う人に会うことができました。その方は、間違いないと思います。
というのは娘に瓜二つです。
娘は子供のころからちょうちんが祖母ではイことを知っていたそうで、悩んでいたそうです。
「チョウチンさんは、私のおばあちゃんではないよね・・・」と、妻に言っていたそうです。
「そうなんじゃあないの?だって、ダディちゃんもそう言うし、戸籍にもそう書いてあるわよ」と答えたそうです。
「じゃあ、私は あんな顔になっちゃうの? どうしよう・・・でも、ダディちゃん似てないよね。・・・困った!!」
私どもは人として生まれたことを分断されたのです。