ラッキーは、私に「見てくれはどうでもいいのだ。格好を気にするな」と、言っていた。単に、自分の信条として言っているのではなく、しつこいくらい、言っていた。
今、思うに、こんなところにも彼の出生に対するやりきれなさがあったのだと思う。
何度も書いているように、ラッキーの容姿は、身長は小さく、顔は白人そのもので、はっきり言って醜男でした。
私はそのことについて何とも感じなかったのですが、知らない人は異様に思ったようでした。
そもそも、祖母は私の母を四国で産んだあと、祖父と長男と一家で、福岡に行った。祖父の父(私には祖祖父)が、明治維新の前から、九州に行っていて、官営八幡製鉄所の創業の頃から、関係していたので、祖父の姉も一緒に行った。
祖母の次兄は、明治になって、北海道に渡り、その後、ロシアの方に行っていた。日露戦争が起こって、日本軍と一緒に戦って、いろいろ協力した。その縁で、日本軍の軍人と親しくなり、日露戦争終結とともに一緒に帰国したそうだ。
福岡に住み、川筋者の親分として、遠賀川一帯に幅をきかせていたようだ。
そこへ四国の田舎から出てきた祖母は行った。
悲劇はそこで起こった。川筋者と言えば、ヤクザの代名詞であった。そこで祖母は兄の子分でロシア人みたいな男に襲われた。
産まれたのがラッキーだった。
ここで、日本の戸籍がカバーできないというか変なところです。祖父の次男として戸籍に入ってしまいました。
このことは四国の実家にも言っていませんでした。ラッキーの存在さえ隠したようです。戸籍もラッキーが産まれてから、3,4年経ってから、記載されています。
いくら、戸籍にラッキーが祖父の次男として記載されようが、祖父とは似ても似つかぬ容姿です。
祖父母はラッキーの存在自体を隠していたので、ラッキーを戸畑の家に入れることはなく、ロシア人様の川筋者(この男は人さらいをやっていた)のごんぞう小屋で過ごした。
ラッキーは大きくなって、戸畑の家に行ったら、・・・
歓迎されるわけもなく、よく、こう言っていた「ばあさんは、わしが寝転んでいると蹴るんだよ。いつもなんだから・・・」と、
そのことを妻に話したら・・・
「そりゃ、そうでしょう。お義父さん、そのロシア人みたいな人に似てるでしょう。だから、顔を見ると、怖かったことを思い出してしまうのよ。悲しいね。お義父さんには責任がないのに、でも、女は恐怖だったのよ」と、