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Channel: 平成の巌窟王・福迫雷太氏はなぜ獄に
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箱根駅伝

 お正月には皆様恒例の箱根駅伝をテレビでご覧になる方も多いのではないでしょうか? 私もごろ寝しながら、見ています。 箱根駅伝と言えば、ラッキーがオートバイで沿道に応援しに行っていた。記憶にある強豪校にC大学がある。何度か優勝したと思う。...

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いた。 ちょうちんが体調を崩して、病院を探さなければならなくなったので、私のところに「体の調子が悪いのだけれど、近くの医院に行ったら、どこか大きな病院に行ってみなさいと言われたので、▽▽こちゃん(ちょうちんの実子で、ラッキーの孫、三女になっている)に頼んだのだけれど、そのうちに見つけてあげるからと言って、いつまで待っても探してくれないのよ」と言ってきた。...

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骨…2

 ちょうちんは自分の骨の心配ばかりしていたが、病院に入れたのも、家のあとのことも、みんなに連絡してくれたのも妻が仕切ってくれたと知っていた。 二女や三女は、病院に来たときは金の話だけであった。ちょうちんは妻のことをけむったいと思っていたのだが、こんな時に面倒を見てくれるのは赤の他人である妻であると知っていた。...

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フリーズ

 ちょうちんの死の前にラッキーのことを書かねばなりません。東亜子殺害の事件はちょうちんとラッキーがしてきたことの結果であると私は思っています。あの事件はちょうちんの死後、僅か、3か月少しで、起きたことですから、東亜子と吾郎に対しての生命保険の金額が増額されたのも、ちょうちんの死後、すぐでした。...

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フリーズ・・・2

  冬だった。寒い日が続いていたとき、四女から電話があった。 「ラッキーさんが(四女もお父さんとは言わなかった)病院で倒れたから、見舞いに来てください。この電話番号は倒れたラッキーさんのかばんに入っていた手帳から見てかけています。ほかの人にも掛けるつもりです。いつも口癖のように<わしが倒れても誰にも連絡するなと〉言っているけれど連絡します」と、連絡してきた。...

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フリーズ・・・3

  ラッキーは病院をサロン代わりにしてのだから、あまり、重篤というわけではなかったのに、大げさに酸素吸入器などを付けていたので、話すことができなかった。 しかし、本人は話がしたいらしく、しきりに取ってくれと訴えていた。 今、思うに私の子を見て、私どもの母を思い出さずにはいられなかったのだろう。それと、私と祖父はよく似ていたらしい。...

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・・・しつつある。

 ラッキーを見舞ってから、一週間ほどしたら、二女から電話があった。...

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女王の犬

 ラッキーとちょうちんの死を書く前に、書いておかねばならないことです。 私は今の場所に自宅を持ったのは40年以上前です。その前は、千葉の団地に住んていたが、ラッキーはやってきたこともなかった。 ちょうちんも同じだった。 ところが、今の家が建ってから、相次いでラッキーとちょうちんが来た。ちょうちんに至っては、私ども大人が留守中に何度も来た。...

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商品

 ちょうちんが私に生命保険をかけ始めたのは2度目の渡米した時だった。最初の渡米はジーゼルエンジンの船だったが、2度目の時は羽田からだった。 その直後に、日本で飛行機事故が起きて、多数の死者が出た。 それを見たちょうちんは私に生命保険を掛けるのを思い立った。私がロスにいるのに私を被保険者で、自分受け取りにするには、今はどうか知らないが、当時は被保険者の身体検査が必要だった。...

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2月

 また、今年も魔の2月がやってきました。終戦後、最初の正月を泡で過ごした祖父母は、2月になって、どこかから、連絡が入り、戸畑の行くと言い出した。 この年、冬の剣山には、雪が降って体が不自由だった祖母と一緒に福岡の戸畑に行くには大変危険を伴うし、交通の便もよくないので、春まで待つようにみんなで、勧めたそうです。...

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復員兵

 飯塚の権蔵小屋に祖母と一緒にいたのがどのくらいなのか、わかりません。  私が知らない間に祖母はいなくなっていた。このことを兄(長い間叔父だと言われていたが、実は父違いの兄です)に聞きました。...

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餓死

 遠賀川沿いの権蔵小屋から祖母がいなくなった時のことは覚えていない。その後、たいして、時間がたたなかったと思う。 いつの間にか、ラッキーとちょうちんと祖母がいる社宅に移っていた。祖母を官舎に連れて行った兄が言うことには、寒い日に祖母を小倉の社宅に連れて行ったそうだ。とすると、その時私も権蔵小屋から連れてきたのだろう。 いずれにしても、寒い日だった。...

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遺棄

   祖母が餓死して、すぐだった。  当時、車はあまり乗られていなくて、珍しかった。ラッキーは生涯車の運転はできなかった。 それなのに、祖母の遺体を積むために車が来た。祖母の遺体は棺には入れられていなかった。車の中に膨らみがあって、そこに祖母の遺体があったようだ。 そのあと、私は車中で寝てしまったようで、気が付いたら、また、社宅で、寝ていた。そして、祖母の遺体はなかった。...

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醜男

 私がラッキーやちょうちんの子でないと知ったのは東亜子の死後であった。   小さいころ、ラッキーのことを・・・この人は本当に父親なのか?・・・と疑問に思ったことはあった。しかし、戸籍には長男と書かれていたので、国家の作った戸籍だからと信用していた。...

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夫婦愛

 ラッキーらやちょうちんを両親だと思って成長した私は12歳からアルバイトをしてなにがしかの金銭を得ていた。 高校生の頃は昼間は郵便配達、夜は町内会の夜警と、昼夜を分かたず働いていた。働いて得た金はちょうちんに渡すわけではなかったが、いつの間にかなくなっていた。高校はその頃流行りの工業高校であった。中学校の先生もラッキーが三番目の妻のところで生活していて、母子家庭だと思っていて、工業高校を勧めた。...

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振動

 ラッキーが我が家に来たことは1度だけです。 突然、電話があって、我が家の最寄りのJR駅まで、迎えに来てくれということだったので、時間に合わせて、駅まで出かけた。 駅に行くと、まだ来ていないのか姿が見えなかった。電話を掛けようにもそのころは携帯電話がなかったので辺りを見回しているだけだった。...

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・・・しつつある。

 ラッキーを見舞ってから、一週間ほどしたら、二女から電話があった。...

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女王の犬

 ラッキーとちょうちんの死を書く前に、書いておかねばならないことです。 私は今の場所に自宅を持ったのは40年以上前です。その前は、千葉の団地に住んていたが、ラッキーはやってきたこともなかった。 ちょうちんも同じだった。 ところが、今の家が建ってから、相次いでラッキーとちょうちんが来た。ちょうちんに至っては、私ども大人が留守中に何度も来た。...

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商品

 ちょうちんが私に生命保険をかけ始めたのは2度目の渡米した時だった。最初の渡米はジーゼルエンジンの船だったが、2度目の時は羽田からだった。 その直後に、日本で飛行機事故が起きて、多数の死者が出た。 それを見たちょうちんは私に生命保険を掛けるのを思い立った。私がロスにいるのに私を被保険者で、自分受け取りにするには、今はどうか知らないが、当時は被保険者の身体検査が必要だった。...

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2月

 また、今年も魔の2月がやってきました。終戦後、最初の正月を阿波で過ごした祖父母は、2月になって、どこかから、連絡が入り、戸畑の行くと言い出した。 この年、冬の剣山には、雪が降って体が不自由だった祖母と一緒に福岡の戸畑に行くには大変危険を伴うし、交通の便もよくないので、春まで待つようにみんなで、勧めたそうです。...

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