ラッキーを見舞ってから、一週間ほどしたら、二女から電話があった。
「お兄ちゃんが見舞いに行った後、私も行ったの・・・ワッパが取れて、良かったのだけれど、あの人(第三妻)は、ワッパを付けておいた方がいいと思っているみたいね。だって、しゃべれるようになると、うるさくてしょうがないみたいなの、だって、文句ばかり言っているみたいでしょう。だから、よかったようなそうでもないような・・・でもラッキーさんもさんざ悪さをしてきたからねぇ~」
「ワッパが取れて、何でも食べていいみたいなんだけれど、食べないのよ」
「なんでだろう?」
「自殺しているみたいよ」
「だって、点滴やっているんだろう?」
「うん、でも、なんか自殺をしているみたいだわよ」
「君のところの○美ちゃん(四女の子、つまり、戸籍上ラッキーの孫)を連れて行ったの?」
「うん、それがね。まるで気が違ったみたいに、○美のことを”早く帰れ!来るな!”って、言ってわめいているのよ」
祖母が餓死した時、私は5歳であった。寝たきりになって、誰も祖母の部屋には入らせなかった。
2月の寒い日であった。こと切れた祖母にラッキーは、白いご飯をもって、祖母の部屋に入り
「飯食うか」と言った。
飯はあったのだ。後で、このことをちょうちんは「ラッキーさんが、働いているものが食うのだ」と」、言って、おばあちゃんの配給もとって食べたのよ」と、言い訳がましく言っていた。
あの日から40年以上経っていた。