事件が起きるまで、私はラッキーとちょうちんの子だと思っていました。いつも、第一妻の凶暴さをちょうちんは「二人でとっくみあいのをしていた。○枝(第一妻の名)とは仲が悪かった」と、祖父と第一妻の関係をいっていました。
それで、小さい頃から、東亞子を連れて行って、一緒にいる第一妻に会ったならば、ひどい目に遭うだろうと・・・
それもありましたが、このちょうちんの方が私にとって困っていました。この女がいなくなったら、東亞子に会いに行こうと思っていました。
事件は、ちょうちんががんセンターで亡くなった3ヶ月後のことでした。ちょうちんの事後処理を弁護士に依頼して、次女と三女に話をつけ、会いに行こうと思っていた矢先の出来事でした。
ちょうちんの死を平成5年9月30日午後11時59分と医師は確認しました。
翌、2月23日にハワイの自宅で東亞子は死体で発見された。同じく吾郎も死亡していたが死体には蛆がわいていたそうだ。
ちょうちんの葬儀を私が喪主になって執り行いました。今、思うと、ちょうちんは東亞子の事件を予測していたように「自分が死んでも、九州の連中に連絡しては駄目だ」と、何度も繰り返していました。
ちょうちんも自分が死んだら、私が東亞子に会いに行くことはわかっていて、私も自分の本当の身分を知ることは確実だと思っていたのでしょう。
そして、九州から出たきた者たちが東亞子の周りを徘徊していたこともつぶさに知っていたのでしょう。
ハワイで、東亞子が第一妻に暴力を振るっていたことを知っていて、「あっちはひどいみたいよ」と、私どもにいっていた。
「吉○さんちは怖いから・・・」とも、言っていた。自分がラッキーを痛めつけるように依頼したくせに、最後まで勝手な女だった。
このとき、まさか、東亞子と私の誘拐に深く関与していたとは知らなかった。
自分の身分を知ってから、どこで、どのように誘拐されたか、調べることにした。
東亞子と私は5歳の差があります。私には実親と一緒にいた記憶がありませんが東亞子は小学校はいる直前まで一緒にいたのですから、当然、実親の記憶があります。