前項で、明治鉱業のことに触れました。
東亜子が殺害された後、東亜子の本宅(死亡した時点では、成城の自宅マンション、ハワイのコンドミニアム、箱根、名古屋にそれぞれ別荘があった)で、写真を整理していたら、驚いたことに、私が住んでいた明治鉱業・篠栗鉱業所の社宅で、東亜子を真ん中にした集合写真があった。
炭鉱会社の社宅とは、通常、炭住と呼ばれていた。私は物心ついてから、東亜子にあったことがなかった。なのに炭鉱のことをヤマと呼んでいた時代の炭住に来ていたのだった。
その頃、東亜子は藤田小女姫(コトトメ)として、天才少女占い師と呼ばれていた。私は小学校4, 5年だった。
その前に、ラッキーは大人の男なのに、少女雑誌を買ってきて、一人で、後生大事にしているのは知っていたし、同じ社宅のおばさんたちも、私のことを弟だ言っていた。
東亜子亡き後、篠栗に行って、いろいろ聞いて歩いた。
東亜子がラッキーの第一妻にさらわれて、篠栗に連れてこられていたのも、この時、知った。2軒長屋になっていた社宅に監禁されていて、時々、窓から、見えたそうだ。
東亜子がラッキーの第一妻に東亜子を攫わせて、続いて、私をラッキーの代に妻になるちょうちんに私をさらわせた。昭和20年、もうすぐ、東亜子は小学校という時期だった。
ラッキーは明治鉱業篠栗鉱業所であるから、炭住にいたとしても、第一妻と第二妻になる者が同居ということは考えられないことだろうから、私はどこに監禁していたか・・・・
いわゆる川筋者たちがいる飯塚の権蔵小屋であった。