私が小学校5年か6年ののころだった。
西日本を中心に森永ドライミルクにヒ素が混入していて、多くの子供たちが被害を受けた。
その頃、私どもの家族となっていたラッキー、ちょうちん、私、二女、三女が住んでいた明治鉱業・高田鉱業所社宅にも、牛の模様がついた森永ドライミルクの缶がおけれていた。
私は小学校5年、二女は小学校1年であった。前にも紹介したようにラッキーの実子は誰もいなくて、ちょうちんの実子に三女がいた。
で、私と二女はがりがりに痩せていたのであるが、このドライミルクを飲ませてはもらえなかった。というより、お湯に溶いて飲むということも知らなかった。
でも、誰もいない時を見計らって、指に唾をつけて缶の中に入れると粉がついてきた。それをなめると旨いので、たまに指につけてなめた。でも、缶はすぐに空になっていた。
つまり、三女だけがお湯に溶いて、飲んでいたので、ミルクの缶は空になったのだ。
ちょうちんは三女だけに森永ドライミルクを飲ませていたのだ。
世間で、森永ヒ素ミルクとして騒がれても、三女に被害があったにもかかわらず、申し出なかった。私と二女に飲ませなかったので、二女と私には被害がなことを不審に思われるのがいやだったようだ。
二女はヒ素中毒の後遺症が出たのか、体が弱かったし、皮膚にできものができて、後年、ちょうちんに、「どうしてくれるのだ」と迫っていた。
私はこのブログの初めの方の写真にあるビアフラの子のように腹が出て、骨と皮ばかりになっていたのにミルクを飲むことはなかったし、二女も同じであった。幸か不幸かこのようなヒ素中毒の被害はなかった。