復員兵
飯塚の権蔵小屋に祖母と一緒にいたのがどのくらいなのか、わかりません。 私が知らない間に祖母はいなくなっていた。このことを兄(長い間叔父だと言われていたが、実は父違いの兄です)に聞きました。...
View Article餓死
遠賀川沿いの権蔵小屋から祖母がいなくなった時のことは覚えていない。その後、たいして、時間がたたなかったと思う。 いつの間にか、ラッキーとちょうちんと祖母がいる社宅に移っていた。祖母を官舎に連れて行った兄が言うことには、寒い日に祖母を小倉の社宅に連れて行ったそうだ。とすると、その時私も権蔵小屋から連れてきたのだろう。 いずれにしても、寒い日だった。...
View Article遺棄
祖母が餓死して、すぐだった。 当時、車はあまり乗られていなくて、珍しかった。ラッキーは生涯車の運転はできなかった。 それなのに、祖母の遺体を積むために車が来た。祖母の遺体は棺には入れられていなかった。車の中に膨らみがあって、そこに祖母の遺体があったようだ。 そのあと、私は車中で寝てしまったようで、気が付いたら、また、社宅で、寝ていた。そして、祖母の遺体はなかった。...
View Article醜男
私がラッキーやちょうちんの子でないと知ったのは東亜子の死後であった。 小さいころ、ラッキーのことを・・・この人は本当に父親なのか?・・・と疑問に思ったことはあった。しかし、戸籍には長男と書かれていたので、国家の作った戸籍だからと信用していた。...
View Article夫婦愛
ラッキーらやちょうちんを両親だと思って成長した私は12歳からアルバイトをしてなにがしかの金銭を得ていた。 高校生の頃は昼間は郵便配達、夜は町内会の夜警と、昼夜を分かたず働いていた。働いて得た金はちょうちんに渡すわけではなかったが、いつの間にかなくなっていた。高校はその頃流行りの工業高校であった。中学校の先生もラッキーが三番目の妻のところで生活していて、母子家庭だと思っていて、工業高校を勧めた。...
View Article振動
ラッキーが我が家に来たことは1度だけです。 突然、電話があって、我が家の最寄りのJR駅まで、迎えに来てくれということだったので、時間に合わせて、駅まで出かけた。 駅に行くと、まだ来ていないのか姿が見えなかった。電話を掛けようにもそのころは携帯電話がなかったので辺りを見回しているだけだった。...
View Article暴力
ラッキーやちょうちんが私の子に怯えるのは、「瓜の蔓に、なすびはならぬ」の諺のように、自分たちのしたことが悪いと承知していて、これを隠そうとして、さらに悪さを重ねるということでしょうが、これを隠すために、自分たちの孫を東亜子の子として、入籍することを考えた。...
View Articleファックス
事件後、東亜子の自宅マンションには秘書と称する女性が入り込み、中からロックアウトの状態で、1年 近く過ぎた。 その間、中の荷物などをその女性が持ち出していたそうだ。 複雑極めた戸籍のために。多数の相続人がいた。つまり、ラッキーが3人の妻がいて、それぞれに子供た居 るので、多数の兄弟姉妹が出来てしまっていた。...
View Article進行形
四女が結婚してからも、本郷のラッキー達の家によく来ていたようだった。四女が結婚してから、私はラッキーたちの家に行ったことがなかった。 四女が私の子を「なんで、この子、私に似ているのよ」と言って、抱きしめて、離さなかった時から、私の家族を含めて、会うことを妨害した。...
View Article続けざま
ラッキーが入院したのは寒い季節であった。一週間後、見舞いに行って、口のワッパを外してもらって、なんでも食べられるようになったのだが、ラッキーは食べ物を一切口にしなかったそうだ。 寒い季節が過ぎて、点滴で、凌いでいた。 私は九州の方に連絡したら、叔父がやってきたそうだ。で、四女にその様子を聞くと、「どうしてだかわからないけれど、○○町の方に行くと言っていたよ」と言う。...
View Article1, 2、 3、
四女が亡くなった時にちょうちんに伝えたのは私だった。 ラッキーの第一妻はラッキーより一回り上で、ちょうちんとは面識があるというよりはどこで一緒に生活したのか、一緒にいた時期があって、ちょうちんは第一妻の性格や癖などを私どもによく話していた。 第一妻の長女はちょうちんとは同い年であった。それぞれラッキーを挟んで、一回りしたと一回り上であった。...
View Articleスウィッチ・オン・・・1
先の東京オリンピックの翌年、私は片道切符で渡米した。別に何の目的もなく、ただ、行ってみたかっ たのだが、帰国の旅費がなかった。当時、飛行機による渡米は高くて、貧乏学生には手が出なかったし、旅 費を得るためにアルバイトに継ぐアルバイトでやっと横浜からサンフランシスコまで行くことができた。 同級生2人と都合3人でサンフランシスコに着いたときは不安いっぱいであった。...
View Articleスウィッチ・オン・ 帰宅
2度目のロスでは、ガーディナーのボスになって、自分でお得意を獲得して、アシスタントを連れて、仕事 をした。 しかし、アメリカ全体では、不景気であった。古くからの日系人などは「景気がいいのは教会だけだ」と いうようになっていた。私どもと同じようにアメリカで仕事をしていた日本人も兵役に就くものが出てきた りしていた。兵役に就くとアメリカ市民権がとれるので、私の知り合いでも何人か兵役についた。...
View Articleスウィッチ・オン・・・子は祖先を写す
帰国が秋も深まった11月頃であった。日本では仕事がなかったので、就職をしなけれた成らなかった。 すぐに就職活動をして、不動産会社に決まった。12月から勤め始まった。仕事が決まったので。所帯を持 つことにした。で、翌年、正月休みに江戸川の家を出て、中野のアパートに引っ越した。引っ越しと言って も彼女の車(普通の乗用車だった)で、2往復の荷物だった。...
View Articleクラブ
「戸畑生まれ」様のコメントにもありましたように私の祖父母がやっておりました倶楽部と称した遊 郭は、私どもの祖祖父が八幡製鉄所の創立に関係したからだと思います。 明治維新は、土佐をはじめ四国は、いわゆる勝ち組であったと思います。 祖祖父は、早くから、四国を出ていろいろ出かけていたようです。八幡製鉄所の創立に関係したようで...
View Articleスウィッチ・オン・・・運動会ができる部屋
団地に住み始めて、住居もあんてして、私も子が出来て、仕事もやっとなんとかなるようになったので、 持ち家が欲しくなった。 せめて、子が学校行くときには自宅から通わせてあげたいと思った。 私に子が出来てほどなく三女が結婚して、江戸川の家に夫を連れてきた。江戸川の家は2軒あって、片方を 貸家にしていた。その貸家の方に三女夫妻が住んだ。...
View Articleスウィッチ・オン・・・青米三升
私は広いマンションを買うのをあきらめて、今の場所に土地を買った。 しかし、土地だけでは住むことができないから、生活は相変わらず団地住まいであった。それならば、私 どもに「送金しろ!!」 「送金!」と言わないだろうと思っていたが、そうではなかった。 二女を通じて、相変わらずであった。 おまけに何をどういう考えでそうしていた分からないのだが、裁判所に行って私を告訴するというのだっ...
View Articleスウィッチ・オン・・・生命保険
いつも、私に、三女やちょうちんの「送金しろ!」を伝えてきている二女には言わないのかというと決し てそうではない。 私がラッキーやちょうちんに攫われたのは記憶にない。しかし、二女は、かなり大きくなっていたので、 記憶にあるし、実親も知っていると思う。二女が来たのを、私も記憶している。戸籍をどういう風に作った か知らないが、当時、どう見ても私と同じくらいの年齢だと思うが、4歳年下であった。...
View Articleスウィッチ・オン・・・テレビ
Y(三女の夫)の実家に行った後、何度も江戸川の家にも電話したし、彼の会社にも電話をした。 電話しても話をする前に切ってしまった。 三女から、「”せっかく来てあげているのに出て行けとはふざけている。もう、電話してくるな”と言っ ているから、もう、電話をかけてこないで!!」と・・・・ 「そうなんだ…な! だったら、金を送ってよこせ!送金しろなどと言わないよな!」...
View Articleスウィッチ・オン・・・テレビ2
ちょうちんはYの母親が若いことに驚いていた。何かを知ったようだった。 少し、時間が出来たので、江戸川の家に行って、彼に直接話そうと思ったので、行くことにした。 これもあとで知ったのだが、東亜子が「私の青春なかった。私の人生なかった!」という、野はここから 始まったのだ。 初夏というか、寒くはなかった。江戸川の家に行くときは殆ど車であったが、何があるかわからないの で、電車で行くことにした。...
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