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Channel: 平成の巌窟王・福迫雷太氏はなぜ獄に
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買い物姿で・・・

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 福岡に行って、改めて思い出すのは東亜子がラッキーの第一妻によって攫われたときの様子です。
 
 祖父母の家にいた東亜子が買い物姿のラッキーの第一妻によって、拉致された後のことです。私が小学校高学年まで過ごした明治鉱業の炭住(当地の方は社宅と言っていますが、東京に来て炭住といっていました。2軒長屋です)に連れてこられたのは昭和19年も暮れの押し詰まった頃だ。
 
 この炭住は私が住んでいた炭住とは近かったが同じのではない。そこで、東亜子は軟禁であるから、外には出られなかった。
 同じ頃、東亜子と同じ年頃の子が外から家の中にいるのがわかっても見るだけで,声を掛ける雰囲気ではなかったそうだ。沢山の炭住が並んでいたから子どもは大勢いたので、後に東亜子が雑誌などマスコミに登場するようになると「あぁ、あそこの家にいた女の子だわ」とみんなんで言い合ったそうだ。
 
 その後、ラッキーは小倉に転勤になって、小倉の炭住に行くのであった。小倉は戸畑の祖父母の家から近かった。それに若松も近いので、東亜子を炭住に監禁できなくなった。
 そこで、ラッキーの第一妻に東亜子を東京に連れて行き、自分たちの借金の形に吉原関係者に手渡すのであった。
 その時の追われている様子を東亜子は「幸運への招待」に書いてあった。
 
 その時から,10年くらい過ぎた頃、私は東亜子の売られた場所近くに住むことになった。
 

郭公の雛を育てさせた

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 『郭公の雛を育てた』という言葉があります。託卵のことでしょうね。
 
 ちょうちんはいつもこう言っていた。「ラッキーさんは、あんたら(私と家内)の考えているような人じゃなか・・・何人子どもがいるかわからないんだから」と、
 でも、ラッキーの戸籍には東亜子や私を含めて5人の子がいることになっている。ただ、三女は白人のような感じはラッキーに似ているだけで、後は4人は似ても似つかぬと言うのが正しいであろう。
 
 ところが三女の父親を巡って、ラッキーがちょうちんを殴り、そのちょうちんは江戸川畔で、私に心中の誘いをしたくらいだから、もちろん、ラッキーの子ではない。
 
 東亜子がハワイの自宅で殺害された後,報道で、同時に殺害された養子・吾郎の顔写真が出た。
 私はびっくりした。
 なんで、養子がラッキーにそっくりなんだ
 
 つまり、ラッキーは郭公のように、何人もの子をあちらこちらに託卵していたのだろう。
 
 その吾郎に福迫君は「僕と吾郎君は双子のように似ている」と、裁判所で証言しているのはどういうことだろうか・・・

ねずみ算

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 前の項「郭公の雛を育てさせた」で、ラッキーが数え切れないほどの子をいろいろな女性に産ませたことを書きました。
 
 それで、結論から書きます。その子達は自分の親が誰であるかは母親から聞いて知っていた。
 ところが、ラッキーは自分に似た鼻が大きく白人面の自分の子達を嫌った。ところが、大きくなったラッキーの子達はラッキーを責め立てた。
 ラッキーも人の子であった。自分に似た子達を何とかしてやりたいと思った。ここのところをこう言っていた。「このままでは、馬鹿おやじで終わってしまう」と、私にも言っていた。私はこの時に「なんだ、馬鹿親父だとおもっていないのか?」と心の中で思っていた。
 方々に産み散らしたラッキーの子達は成人して、又、子を作り始めた。タイトルの『ねずみ算』のようだった。
 
 ハワイでの惨殺事件はこのラッキーの子どもや孫が引き起こしたものと推察しています。

自殺・・・ラッキーの場合

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 選挙中のことですが、なにか殺人事件の容疑者が拘留中に自殺したとの報道がありました。それで、そのときに書こうと思ったのですが、今になってしまいました。
 
 ラッキーもちょうちんも最後は自殺でした。二人とも病院にいてのことでした。おのおの自分のしたことを隠して逃げたのでしょう。
 
 まず、ラッキーの場合から書きます。
 昭和の末期で、平成になる1,2年前でした。病院での過剰医療が騒がれていた頃です。東亜子のところから金をせびっていたのでしょうが、都心の地下鉄の駅近いマンションに3番目の妻と一緒に住んでいたラッキーは70台半ばになっていた。
 東亜子と一緒に亡くなった吾郎のことを、ラッキーの数ある子から生まれた子、つまり、孫だと確信しています。
 東亜子のところに吾郎を押し込んだあとだった。週刊誌に『藤田小女姫の子』として、掲載されたいたのを見たのはその頃だった。
 これも後で知ったのだが、『吾郎』という名前自体についても、まったく、ラッキーと言うのはふざけた人間だと思っている。
 というのは、東亜子が好きであった二枚目俳優の本名だったからだ。そもそも、それを邪魔して、高利貸の息子を東亜子に押し付けて、高利貸しの息子から金を引き出したのがラッキーだ。
 それを名前だけ東亜子の想い人と同じにして、東亜子の養子にして押し込んだのだった。
 
 その子が小学生になって、週刊誌に出た頃、我が家にラッキーがやってきたので、このことを問い詰めた。
 ラッキーは泣きだしそうな顔でうつむいて黙っていた。
 
 そういうことがあって、4,、5年経っていた。
 
 なにもすることがないラッキーは病院めぐりをした。当時、病院をサロンにしていた老人が多かったようだ。
 そこで、ラッキーは体調を崩したようだった。即、入院となった。
 
 そのころ一緒にいた四女があちらこちらに電話をして、見舞いの催促をしていた。私のところにも電話が何度かあって、仕方なく見舞いに行った。
 病院にいくと大げさな機械を口にはめて体には電線みたいなものを巻きつけていた。でも、たいしたことはなさそうだった。
 私は小倉での祖母のことを思い出した。心の中で「こんなところで寝ていられるような身分ではないだろう。お前!○○(祖母の名)になにをした」との思いがこみ上げてきた。
 見舞い品にもっていった食パンを拒否するその手は私達親子(私の子と一緒に行った)を拒否するようにハエでも追い払うような手つきだった。
 それを見た私は、思いっきり にらみつけた。
 
 ラッキーはキューっと、収縮した。キューピーが両手を挙げているように両手を挙げて硬直していた。
 それを見た四女は「あらっ、精神的なショックからかしら・・・」といった。
 
 何分かして、元に戻ったラッキーに「じゃあ・・・な」と言った後、四女に「先生に言ってあの機械をはずしてもらったほうがいいよ。言いにくければ、私からいってもいいよ」と頼んだら、彼女はすぐにっ先生に言ったらしくて、機械も取れて、すべては普通になった。
 それから、少ししてから、二女から電話があった。
 「ラッキーさん、わっぱやら機械が取れて普通になったのだけれど、何にも食べないのよね。なんだか、自殺をしているみたいなのよ」と、
 
 一緒にいた子にそのことをいうと「自殺の現在進行形?」という。
 場所は病院であるから、点滴などし始めた。
 
 祖母と同じ、餓死の道を辿ったのか私にはわかりません。
 
 

自殺・・・ちょうちんの場合

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 私が所帯を持ってから、ちょうちんが我が家に電話してきたのは3度だけであった。
 最初は三女(ちょうちんの実の娘)の夫をただき出した後、いやがらせの電話だったのか、まだ、幼児であった娘が出た後、泣き出した。
 何を言われたか聞いても「ダディちゃんのことを・・・」というだけで、泣いていた。
 
 二度目は、ケチだったちょうちんが、珍しく米をくれた。その時はコメが不作の年で臭素米などの話題が出ていたころだった。
 その米を家内が研ぐときに、異物が混入していて、米と分離しようにも比重が同じなので分離できないから、「どうしよう」ということになった。私どもの世代は食べ物を捨てるということはできない世代だったと思うし、私は飢餓のl子供時代を送っていたからなおさらだった。
 それで、飼っていた番いの犬に野菜とガラを混ぜて、圧力なべで煮て、やった。
 2,3日したら、メスの方の犬が朝の散歩のときに急死した。犬といってもコリー犬であったので、1度の食事でかなりの量を食べる。それを2頭にやっていたから、かなり食べた。
  メスが急死してから、オスのほうは食事をしなくなった。私(のみならず我が家全部)は、まさか、ちょうちんからの米が原因であったとは思わなかった。
 そして、オスの方もメスが死んでから2,3日後に亡くなった。
 米が来てから、10日ほどした頃、ちょうちんから電話があった。
 「珍しいではない?なにか??」というと、
 「この頃、何にも連絡がないから、どうしたのかと思って・・・ガス中毒でみんな死んでいるのではと思ったから…」という。
  いつもちょうちんとは連絡を取っていたのではないし、こちらから、江戸川の家に行っていたので、たかが10日くらい連絡がないからといってガス中毒と考えるのは、何か理由があったのだろう。
 
 そして、三度目の電話、2度目の電話があってから、10年以上は経っていた。
 「癌になったみたいで、どうしよう。○○ちゃん(三女)に言っても、なんだかんだ言って、なんにもしてくれない。どうしようかと思って・・・」
 「どういうこと?なんで癌だとわかったの?」
 「いつもの行きつけの先生が、癌かもしれないから、癌センターみたいな癌専門の病院でみてもらいなさいというのよ。○○ちゃんも▼▼ちゃん(二女)も自分でなんとかしなさいというようで・・・」
 「わかった。じゃあ、いろいろ当たってみるから、待ってて」と言って電話を切った。
 その時、正直、「我が家の敷居は高いはずなのに、よく電話してこられるよ」と思った。
 
 家内に言うと「しょうがないじゃない。早急になんとかしなければいけないから、今日は仕事をキャンセルして、なんとかしようよ」と、
 それで、その日のうちにさるがんセンタいーに行くことで、話がついた。
 ちょうちんから電話があってから3日後日に入院ということになった。入院が決まるとあれほどそっけなかった三女がやってきて、なにやらやっていた。
 入院の前日に私は江戸川の家に行って、翌日の入院に備えて、泊まり込んだ。
 
 こうして、癌センターに入院した。その後、病院に見舞いに行くのは私の家族だけであった。
 
 清拭のとき、娘がちょうど見舞いに行った時だった。
 看護師さんが「あら、お孫さん?いいわね。やってもらって・・・」とちょうちんに言った。
 ちょうちんは「○○ちゃんが来るから、○○ちゃんにふいてもらうから・・・」と言って、タオルを自分で持っている。それを見た看護師さんが「あら、・・・早くしないと冷めちゃうわよ」といってもタオルを握って離さない。
 当たり前のことだが、 私の娘はちょうちんには似ても似つかぬ容姿だ。娘は子供のころから、ちょうちんのことを「あの方、私のおばあちゃんではないよね」と言っていた。
 わかっていても、人としてやることであろうから、ちょうちんを見舞っていた。
 ところが、ちょうちんの方はますます私の実の母に似てくる娘に対して逃げ回っていたのだった。
 
 最初に入った病室は数人の患者がいた。そのなかでも、病状の軽微な患者とそうでない患者がいて、何かにつけ摩擦があったようだ。
 
 病院側も知っていたのだろう。個室に移ることを勧められたので、私は即承諾した。新しい病室を見に行く時に、私たちを変な眼で見ていた。
 
 私は知らなかったが、個室に移るときに看護師さんに、何かあったら、ここに連絡してくれるようにと、三女だけの電話番号を書いた紙を渡していたそうだ。
 
 個室に移ったその晩であった。
 ちょうちんは体につけていた医療機器を勝手に外して庭に面した病室を狂ったように激しく歩き回ったそうだ。
 もちろん、病院の方は紙に書かれた連絡先に電話した。
 三女は「わかりました。明日行きます」というものの、結局、行かなかった。
 ちょうちんは荒れ狂って、医療機器を外す、の繰り返しであったようだ。
 私のところに二女から連絡があったのは一日経っていた。
 
 それから、4ヶ月半経って、東亜子の事件であった。ちょうちんの死から1ヶ月後、東亜子と吾郎にかけられたた生命保険が増額されていた。偶然だろうか?
 
 

卵子提供

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 今朝のテレビで、卵子提供のことが放送されていました。
 
 精子提供だとか卵子提供などはその結果のことを考えてのことでしょうか?それも卵子提供や精子提供で、産まれた子のみならずそのこの子つまり孫の世代まで考えてのことでしょうか?
 私は、藤田小女姫事件の遠因は私どもの祖父母が若松でさる製鉄所のクラブを経営していたことから始まったと思っています。
 クラブというとなにか酒場のような感じですが、早い話が会社直属の遊郭です。
 
 遊郭では卵子と精子が医療機関を通さないで提供されているわけです。もちろん、生殖活動ですから子ができます。
 そこで産まれた子はどうなったでしょう。私は戦前生まれ議員さんに伺いました。
 「おそらく、闇から闇へだったでしょう」とのことでした。
 
 翻って、今の医療機関で産まれた卵子提供あるいは精子提供の子はどうでしょうか・・・
 はっきり申し上げて遊郭の子と変わらないのです。望んだ親はペットとして可愛がるかも知れません。しかしながら、子に事実を伝えてあるのでしょうか・・・
 おそらく、その重大な事実を秘匿しているのが大半です。
 私どもの場合でいえば、私を騙すことで汲々とした歳月を送ったのに私の子が出来て、その子は私の実の母と父とによく似ていました。
 ラッキーもちょうちんも私の子に、己のやってきた罪過を見せつけられる思いだったでしょう。それのみならず、私は実の父と祖父に似ています。
 見たくない人間に似た私を抹殺したくなったのは当然の成り行きでしょう。それならばと生命保険を掛けてということだったでしょう。
 
 卵子提供で産まれた子に出自を正しく戸籍に書けないようなことをすのはその子をペットとして育てたことなのです。
 ちょうちんもラッキーも私の子の事を知りたがりませんでした。本当の孫ならば成績はどうか何が得意だとかといって成長を楽しみにするのでしょうが、
 彼らは逃げ回るばかりでした。
 
 同じ事が特別養子縁組制度です。
 
 人が人を人以外の動物に貶めることが容認されるのでしょうか?
 それはそれをやった人々も人以外の動物になることでしょうね。
 
 人間って他の動物と変わらないのでしょうね・・・いや、それいかかも・・・
 
 特別養子縁組制度で、子を得た子のない親が言います「我が子と同じように可愛がって」と・・・
 

自殺の前後・・・ラッキーの場合

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 ラッキーが入院したのは寒い二月だった。祖母が小倉で餓死したのも二月の寒い日であった。祖父が雪の四国・祖谷から、戸畑に来て、死去したのも二月だった。
 
 東亜子がハワイで惨殺されたのも二月二十三日(ハワイ時間)
 
 ラッキーの見舞いを催促する四女はどこかほっとしているように感じられたのは私だけではなかった。斯く言う私もラッキーの入院などどうでもよかったが、気になることがあった。
 実は私ども(東亜子と私)には父親違いの兄と姉がいる。このときに姉の存在を私は知らなかったが、東亜子のまわりと実の母のまわりに張り付いていた。
 
 戸籍上は、兄は私の叔父になっている。この兄と父同じの妹がいるのを知ったのは兄が言い出したからだ。つまり、ラッキーの一番末の弟ということである。
 もっとも、兄の口から「弟よ」と言われたことはない。私とは親子ほど歳が違う。おそらく、父からも母からも私は末っ子であろう。
 
 私はこの叔父(このときはそう思っていた)に電話して、「ラッキーを見舞って法がいいのでは・・・」と言った。戸畑に住んでいたこともあり、あまり、気が進まない様子だった。
 私自身はラッキーの長男のくせに行きたくないのだから、まして、弟だったら、行きたくないのも当然だと思っていた。
 
 私がラッキーを見舞ったときに四女が「九州から○雄さん(兄の名)と言う方がお見舞いに見えられました」という。続いて「なんか、変なんです。戸畑から来られたのに○○町によってから、帰るそうです。○○町にお知り合いでも・・・」と言って、首をひねる。
 
 ラッキーの死後かなり経って、戸畑の○○雄を訪ねた。この兄と小学校に入る前の東亜子は一緒だった。このことを○○雄は「こまいころに・・・な」という。
 ところが、ラッキーの見舞いのことに話が及ぶと「あの病院にいたあの娘は、なんだろう・・・」
ラッキーの第三妻に子ができなきとは○○雄も知っていた。
 
 私と○○雄は「四女は東亜子の娘では・・・」と言う想いを共有した。この兄は、東亜子のことは借金のかたに、実の母から私のことをダシにして、金をせびっているのを知っていたから、四女のことをダシにして、東亜子から金をせびっているのだと解釈した。
 私は東京にいてラッキーやちょうちんの近くにいたので、いちいち、思い当たるところがある。
 
 その兄にしても、ラッキーを見舞った後、○○町(ここの母が住んでいる)に行ったのは、私どもの母に会いに行って、何か言ったのだと思う。
 
 同じ血を分けて、腹蔵なく話せないのですね。嘘の代償は大きいです。
 

星の数ほど

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 と言う言葉は多数を意味します。
 
 ちょうちんは私ども(私と家内)に向かって、何度もこう言いました。「あんたら!ラッキーさんには気をつけた方がいいよ。何人子どもがいるかわからないんだから……借金を残されるよ!」
 
 結論から言います。
 東亜子を惨殺した犯人は,このちょうちんが言う「何人いるかわからないほどのこどもたち」がやったと私は思っています。
 
 このこどもたちはほとんど母親は違うでしょう。別々の母親から生まれた子ども同士は非常に仲が悪いのです。
 母親達の代理戦争をこどもたちがやっている。そんな具合でした。
 
 ラッキーが福岡から東京に出てきたときは第一の妻が蒲田で所帯を持っていました。もちろん、ラッキーとではありません。子どもが何人かいました。
 第一の妻とラッキーとは一回り以上違います。もちろん、ラッキーの方が年下です。私の母親になっているちょうちんとは第一妻の長女と同い年です。
 このことを東亜子の事件の後,私は電話で第一妻の長女言いました。
 
 ラッキーも第一妻も容姿は白人でした。
 
 その後、ラッキーが明治鉱業の庶務課でクラブつまり会社専属の保養所の開設するのですが、高田協業所は貝島炭鉱と合併したので、その用意のためにラッキー達は採用されたようです。
 何はなくても、保養所をと言うのでしょうね。
 
 女性を集めて、作業員のための保養所を作って、開坑を待ったのでしょうが、このころから、ラッキーが沢山のこどもたちを作ることになります。
 
 子どもが出来たからと言ってラッキーは責任を取るような男ではなかった。産業廃棄物のように捨て去った。
 ところが、母親は一生懸命子を育てた。
 このこどもたちは戸籍のないのが沢山いたし、どこかの戸籍に入れ込んだのもいた。それと、母親の親族の戸籍に入れたのもいたようだ。
 このこどもたちは母親に「あなたの父親はラッキーさんよ」と言い聞かされて育った。
 
 戦後になり、こどもたちも大きくなって、東亜子が藤田小女姫として,活躍している姿を見て、大勢の彼ら、彼女らは東亜子の周りを徘徊した。
 
 ラッキーの戸籍にはラッキーの子は誰一人として入れてないのに、私どもを入れていた理由はいろいろあるでしょうが、私の推測では日本人の容姿であったのも一つでだったでしょう。
 特に私は祖父とよく似ていると四国の親戚のかたが言います。
 
 沢山のラッキーのこどもたちは仕事を持たなかったので、生活が成り立たない。そして、目に付けたのが際立つ資産と収入を持つ東亜子であった。
 
 別々の女性から生まれた沢山のこどもたちはそれぞれに東亜子に,悪く言えば「集る」生活をした。それぞれ反目していたので、「あいつの方が多い」とかいがみ合ったでしょう。
 
 数多いたかりの人間はラッキーの子どものみならず、子どもの子どもつまり、孫も含まれるようになっていった。
 
 こんな状態だったようです。東亜子の金がつきたときが惨殺だったのです。
 
 亡くなった吾郎も獄にいる福迫君もこの一員であることは確かでしょう。
 
 おぞましい事件です。ある方は言います「日本の恥部です」と、・・・・
 全ては嘘の戸籍から発生しているのです。
 

暴走族

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 故・吾郎の事件時年齢は、20歳でした。
 
 普通なら大学紙の年齢なんでしょうが、何もどこにも所属していませんでした。ハワイにはよく行っていたようです。日本の大学に来たかったようで、東亜子が知り合いに裏口入学の依頼を何件かしていたようです。
 しかしながら、ほとんど、小学校から学校らしきところに行っていなかったようです。在籍はしていたようですが、登校はしていなかったようです。
 東亜子のところに呼び出し状が束になって出てきました。
 吾郎の住所は東京ですが、実態は名古屋に暮らしていたみたいです。それも実親と一緒だったのでしょう。
 
 事件後、某週刊誌には名古屋で暴走族に加盟していたとの記事もありましたし、それらしきものもありました。
 
 

5万円分の海苔と茶・・・小女姫最後の買い物

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 被害者・藤田小女姫こと藤田東亜子には肉親がいないと世間には喧伝されていた。
 
 ハワイでの事件が報道されてから、すぐに地元の警察署に出かけて、、身分を名乗り、これから、どうしたらいいか尋ねた。
 これは一番に外務省邦人保護課でと言うことでした。
 
 続いて、一応マスコミの方にも連絡を取った。それで、私が身内と言うことで報道された。
 
 相続と言うことになれば、故人の遺産というより負債の始末をしなければならない。ここが一番重要だ。
 いろいろな経験豊かな中学時代の恩師を訪ねて、事情を説明して、どうしたものか教えを乞うた。
 「サラリーマンとか勤め人だった人が亡くなった場合と違って、自分で仕事をしていた人が、こんな風に死んだ場合、必ず、遺産は負債の方が多くなるものだからね。そういうものなんだよ。人というのは! 亡くなった人に金を貸していた人は必ず申し出るよ。ところが、反対に借りていた人は、決して、申し出ないから、・・・・
 「人というものはそういうものなんだよ」
 
 この恩師の言葉は、まさに至言であった。
 
 私が東亜子の身内であるとわかって最初に申し出てこられたのが、東亜子が成田からハワイに向かう前に東京駅側のデパートで、ハワイへの土産にするために買ったものであろう海苔とお茶であった。
 概算で50,000円ほどであった。これをカードで支払っていた。
 事件が報道されて、買い物をした当人が死亡したと知ったデパートは早速、私のところに、債権の確認をしたのであった。
 生まれたときはどうであったかわからないが、物心ついてから、電話で、一度話したきりで、ちょうちんが亡くなり、今、まさに『会いに行こう』と思っていた矢先のことだった私にとって、亡くなる寸前の東亜子の行動の一面を見た。
 この支払いはすべての財産の詳細がわかってから支払うことになるだろうが、一応、マスコミの方にハワイに到着した直後の東亜子の様子を確かめると「コンドミニアムの管理人さんが大きな荷物を持ったコトトメさんを見てるそうです」とも、ことでした。
 
 50,000円分の海苔とお茶は土産だったのだろう。時差の関係で、何日とはいえないけれど、大荷物を抱えて、自宅に入った日から、翌日には事件になったものと思われることから、真犯人たちへの土産になったのだろう。
 事件後の部屋の様子を写真で見ると、何も残されてはいない。物言わぬ東亜子が発見されたクローゼットには衣類がなにも残されていなかった。
 
 この請求書とか東京の自宅に残されたメモ等から、日本での東亜子の足取りをたどることができた。
 
 東京駅から成田に向かう東亜子を追っているものがいたのが目に浮かぶようです。
 
 50,000円分の海苔とお茶は嵩としてどのくらいになるんでしょうね?
 

無心

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 東亜子がいつから、占い師として街頭に立ったのか、残された写真等で見てみると、今で言う小学校上級か中学生のはじめの頃が一番最初であろう。旅から旅へ歩いていたようだ。
 名前は「小乙姫」と書いて、「コトトメ」としていたようだ。そして、監視役だろうか・・・大人の女性(30歳過ぎ)の女性が「小姫」としてついてまわっていた。他にも同年代の恩何の子が数人同道している。おそらく、群馬から上京してきたのだろう。
 昭和20年3月、東京大空襲で焼かれなかった江戸川縁(後に私が住むことになる)で、ラッキーの第一妻によって、吉原関係者に引き渡された後、秋田、群馬に連れられていたが、吉原は消失していたので、一応、占い師としてつれられてきたと思われる。
 私もこの吉原関係者とは長い間、つきあっていた。ラッキーが小岩駅近くで、暴行をされた。俺を実行したのはこの吉原関係者であった。戦後になって、世の中は一変してしまったので、女の子を「占い」と称して連れ歩いていたのだ。
 
 
 さらわれた子がこのようにして、金を稼がされた。
 私とて、ラッキーやちょうちんがなにかさせて、金をと思っていた。東亜子が実の母に発見されて、マスコミに登場してから、3年くらいたった頃だろう。
 中学生になったばかりの私は「豆腐売り」をさせられて、最初の仕事をした。
 我が子と行き別れした女性は即座に別れた子の年齢を言えるそうだが、そういう我が母から子をだしにして無心をしておいて、かつ、さらった子を働かせるのだった。
 
 大きな金を動かせるようになった東亜子からは、もちろん、母や私からもラッキーとちょうちんは無心をしてくるのであった。東亜子の方は第一妻が加わったのだ。
 
 ラッキーが小岩駅頭で、暴行を受けたのは、私やちょうちんが上京してから、すぐだった。これは、ちょうちんが吉原関係者に頼んで、文無しのラッキーから金を取ることだったが、無料でこんなことをしてくれる人間はいない。
 金額は家一軒相当であった。
 
 

無心・・・差別感を利用して

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 ラッキーは最初東亜子をさらって、江戸川縁の吉原関係者に引き渡し,自身と第一妻の借金の形にした。
 ところが終戦で吉原は焼け出された。
 
 ラッキーは、まわりのものに脅されたせいもあるのだろうが、私ども親子をむさぼった。
 
 
イメージ 1
 これ写真は東亜子がベッドサイドに飾ってみていた物です。私は戦後に成長しましたから、この写真を見て、他人が差別的に思うとは考えられませんでした。だから、この写真は我が家の玄関を入ったところで、お客様を出迎えるように飾ってあります。
 誇りにこそ思っています。
 
 東亜子はその差別的のことばを投げかけられていたのでしょうか・・・ベッドサイドで、一人密かに思っていたのでしょう。
 世間的に名を知られた母の夫のことを考えたら,何も言えなかったのでしょう。
 
 
 

東北地方の土砂崩れで思うこと

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 先日、秋田地方の土砂崩れ下場所がテレビで放映されていた。
 
 別にそのことと東亜子とは関係ないのですが、この場所に私は何度も行った。
 昭和20年3月、小学校入学前の東亜子は、ラッキーの第一妻が戸畑の祖父母の家から、買い物姿に欺されて、東京の吉原関係者に引き渡された。
 その後、現在土砂崩れで流されいる場所に連れて行かれた。事件後、東亜子が連れて行かれたその家を尋ねた。子共の東亜子が写っている写真を頼りに、その場所にたどり着いた。
 集合写真であったが、撮影した場所もそのときのままであった。
 
 その写真を見せると、その家の中年の男性が写真の中の幼児を指さし、「あっ、これ!俺だぁ・・・」という。ところが、当時大人であった人々は、顔をこわばらせ、あるものはうつむき、あるものは薄笑いを浮かべる。
 
 東亜子は、少しの間、ここで過ごしたと思うのでお話を聞きたかったが、皆さん、押し黙るばかりでした。
 
 なにがあったのだろうか??
 
 そして、今、土砂に流された。

[転載]妻の婚外子

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       妻の婚外子
  今日の最高裁の判決報道で考え込んだ。妻の婚外子はどうするつもりですか。
  最高裁さん、民法772条で婚姻中に懐胎した子は夫の子と推定すると定めている
そしてまた夫が嫡出を否認できるのは離婚後、元妻の懐胎が分かった時のみである。776条では、いったん嫡出を認めたら、もはや否認できない
  つまり、妻がいわゆる浮気(本気も含む)により懐胎し出産し、気づかぬ夫が嫡出として出産届けを出したら、もはや永久に嫡出子の身分を失わせることはできない。
DNA鑑定技術が進ん今日後で気づいても否認できない。
  尤も、779条によれば妻が事実を申し出て妻の婚外子として認知することは可能である。法理論上のことであって、実際にはあり得ないであろう。妻の婚外子を耳した人はいないでしょう。
  夫の嫡出否認期間についての法改正がなければ、法の下、平等ではない。
  世の法律家の意見聞きたし。

転載元: Peterpan

「妻の婚外子」だった。

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 私がラッキーとちょうちんと一緒に生活し始めたのは幼稚園に入る前の暮れか正月だった。
 
 二月の寒い日に、小倉、明治鉱業の社宅で祖母が餓死した。
 
 四月、ラッキーが篠栗に転勤になった。明治鉱業、高田鉱業所の社宅に引っ越した。
 
 四月か五月頃、どこから連れてきたのか、二女が現れ、一緒に生活し始めた。
 
 六月、ちょうちんは三女を生んだ。
 
 
 これから、七年後、東京・江戸川沿いにラッキー、ちょうちん、私、二女、三女とで、生活し始めた。と言っても、ラッキーは他で、生活していたので、たまに生活費をもって江戸川沿いの家にやってきた。ラッキーとちょうちんは互いに顔を見れば、いさかいを始めたので、ラッキーが来ないほうがいいと思っていた。
 
 この間、いろいろとバトルがあったのですが、省きます。
 
 冬だった。珍しく、ラッキーが家に帰ってきた。ちょうちんと二人で大声でなにか話していた。隣室での話に私は聞き耳を立てた。
 どうも、篠栗うまれた三女のことらしかった。そうこうしていうるうちにバシッとラッキーがちょうちんを殴る音がした。
それから、「ばか、なにをする!」というラッキーの声で、私は飛び起きた。
 
 手早く着替えをすると、ばたばたと玄関から出ていくちょうちんを追いかけるつもりだった。ラッキーは「う~い」といって、顎をしゃくった。もとよりそのつもりだったので、走って行った。
 千葉街道に出てみると、いないいので、江戸川の河川敷にでも行ったのであろうと予想した。江戸川の土手につくとちょうちんがうなだれて歩いていた。因みにこの土手はラッキーの第一妻に連れられた東亜子を親切なおばさん(自称)に引き渡される前に徘徊したところだ。
 
 なぜラッキーがちょうちんを殴ったかと言えば、三女がちょうちんの婚外子であるということだ。時系列で言えば当然三女はラッキーの子ではないと言うことだろうが・・・
 どうもラッキーは誰かに教えられたようだった。
 三女の容姿を見ると、どうもラッキーとは血縁関係があると思う。
 
 いつもこういう争いばかりでした。
 
 勝手に二人で争っていればいい物を・・・
 このあと、ちょうちんは「hannちゃん一緒に死のう」と、心中を私にもちかけたのです。一緒に死ぬべきは三女であるにもかかわらずこの女は私を道連れにしようとしました。
 
 少しして、酔っぱらいが「よう ねえちゃん」と声をかけた。
 
 私は冬の江戸川にちょうちんにしがみつかれて入水しないですみました。
 
 この酔っぱらいは命の恩人です。
 
 
 
 婚外子だとか嫡出子だとか、いろいろ面倒ですね。

無遺言遺産

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 東亜子がホノルルの自宅で殺害されて、一番最初に相続について主張してきたのは「ハワイ州」であった。
 
 その主張の趣旨
 ・・・「無遺言遺産州のもの」という主張であった。
 
 殺されたのであるから、無遺言遺産あるのは当たり前といえるでしょうね。
 このとき、みなさん、「殺されたのに、無遺言っていうんだぁ・・・ひどいねえ」といって、あきれていました。
 
 東亜子がこのコンドミニアムを所有しているのはっ政商と言われたさる財界人からの贈与であると聞いています。この時点で築後10年以上というより、20年近かったと思います。評価額は1億円にはなりませんでした。
 
 結果はハワイ州のものになりました。
 
 このように海外での資産の保有は大変です。嫡出子だとか非嫡出子だとか言っている場合ではないですね。それより、ハワイ州のみならず、自宅で殺害されるような無法地帯ではなく安全出会って欲しいです。
 
 ハワイ州の観光政策上、、犯人の検挙ができないと、よくないので、犯人の検挙を急いだということが所々で言われておりました。

双子のように

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 東亜子の殺害事件後、お目にかかったサイディンスッテカー氏は「日本の戸籍、あれはでたらめです」と言われた。私も、今、強くそう思う。
 若いころから、ラッキーの二女として私の戸籍上の妹になっていた女性は私と違って自分がどこから来たか知っていた。彼女は「戸籍は物語で、名前はシャッポのようなものだ」と、よく言っていた。
 今更ながら、至言だとおもう。
 
 昭和46年も暮れのことだった。家内と一緒になる直前であった。ラッキーは「千葉の県民会館で、不動産講座をやるから、聞きに来ないか」というので、二人で出かけた。
 そこでの講師として、34.5歳の男性が登壇して、話していた。内容はよく覚えていないないが、確か、建蔽率のことなど話していた。家内はその講師のことを「白人の混血のような色をしていたけれど、お義父さんとは、どういう関係なの?」と、聞いてきた。
 私どもは家内の車で行っていた。車を駐車場からだして、ふと、みるとラッキーと件の講師が親しそうにしてでてきたろころだった。運転していたのは家内だったが、「同じ方向だから、誘ったら?」というので、「乗っていきませんか?」というと、ラッキーは慌てたように、手を振って「いやいい」という、その時に件の講師に紹介するでもなく、挨拶するのでもなかった。
 私も何だろうと思ったが、わかるわけがない。その後、ラッキーに聞いたか記憶にないが、聞いても、答えなかったようだ。
 
 それから、ほぼ20年後、東亜子が殺害されて、福迫雷太が逮捕されて、犯人引き渡し協定により、東京高等裁判所で審判が行われることになった。
 報道陣が多数いて、傍聴者には整理券が出されていたが、遺族なので、並ぶ必要がなかった。
 
 ふと見ると、あの20年前のあの不動産講座の講師が、今思うと、奥さんと一緒にいる。彼も千葉の県民会館でのことを覚えていたのだろう。私が藤田小女姫の遺族であるとわかっていたのか、目をそらす。
 
 審判が始まって・・・
 いろいろ審議が進んで、福迫君が証言しました。
 「・・・僕と吾郎君はよく似ていて、『双子のようだ』と、よその人に言われていました」との証言でした。
 
 この発言は場所が裁判所です。しかも審判の法廷です。
 
 
 故藤田吾郎の写真を最初に見たときに「なんとラッキーに似ているのだろ」と思いました。その彼に福迫君は「双子のように似ている」とはどういうことだろうとの疑念が今も消えません。
 おそらく、こういうことであろうということは類推できますが…
 
 
 戸籍はどこの一部でもでたらめであったなら、それは物語です。婚外子とか最近言われていますが、そういうことは戸籍が正しくできたときのことです。
 
 
 

土下座

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 最近、テレビドラマで土下座が流行っていたそうですね。あまり、ドラマは見ないので、どういう内容だかわかりませんでが、その語感からして、ろくなこと」ではないと想像しています。
 
 昭和30年、北九州の炭住から、東京の江戸川沿いに引っ越してきた。そのころ、ラッキーは第3妻となる女性のところに住んでいた。後で聞くと、ラッキーが押しかけていったようだ。
 だから、江戸川沿いの家にはほとんど、寄りつかなかった。おまけに、ラッキーは今で言う探偵事務所のような看板を掲げていた、そこの事務員とも懇ろになっていた。
 私が小学校の6年で、二女が小学校4年くらい(どこかか連れてきたので、年齢はさだjかではない)であった。三女はちょうちんの実子だったので、いつもちょうちんが連れ歩いていた。
 私と二女は学校に行く年齢であったが、学校には行っていなかった。
 
 最近では子供の置き去りだとか、虐待だとかが流行っているようですが、ラッキーは置き去りも、放置もなんでもやっていた。九州から出てきただけでも心細いのに・・・・ 
 私と二女は、よく、遠くから聞こえてくる列車の音を聞いては、忍び泣きでした。
 
 冬の寒い頃でした。
 ある日、ラッキーが珍しく江戸川縁の家にやってくるために、最寄りの国電の駅でおりたところ何者かに襲撃されたということを、ちょうちんは楽しそうに話していた。
 
 それから、数年たった頃だった。私も小学生ではなく、高校生になっていた。ラッキーはいつも喧嘩の話が好きだったから、言い出したのか・・・
 「人間は頭を踏んづけられると、参ってしまうのだ」と言い出した。深くはきかなかったが、あの襲撃された夜のことを言っているのだと思った。
 
 誰に襲撃されたのかというと、ちょうちんはが誰かに依頼したのだと思った。近所にさる組の幹部がいた。
 そう考えていたところ、その好々爺然とした組幹部の方が「ラッキーさんは我が家にやってきたことがあるんだよ。家の上がりかまちのところから、頭を畳にこすりつけたまま、顔を上げないんだよ。帰りも後ずさりして、そのまま、帰ったよ」と、言う。
 「ラッキーが何をしに、こちらにきたんですか?」と、聞くと、
 「金を持ってきた。いくら持ってきたかは知らない。ちょうちんさんに渡した」という。
 
 そういうことだろうとは思っていたが、・・・・
 つまり、こういうことだと思う。ちょうちんはこの組幹部に頼んで、ラッキーを襲撃してもらい、雨漏りしていた家の新築代金を出させた。
 ラッキーとて、この組幹部が襲撃すると言うことは、大変のことだとすぐにわかって、いわゆる土下座をすぐにしたのだろう。しかし、それではすまなかった。私に「頭を踏んづけられる云々・・・」は、そのときのことだろう。
 
 この家の新築代金は、東亜子がいつも言っていた「私の人生なかった。私の青春なかった」という言葉をいわしめる元になったのだと、私は強く思っている。
 
 そのあとのことは、亡吾郎のことに続く。
 
 土下座などという言葉が流行っているのは良い世相ではないですね。
 

土下座の果て

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 駅裏で襲撃されたラッキーは私どもが住んでいた家の新築代金を持参することを約束したようだった。この約束を果たさなければ、どうなるかはラッキーが一番わかっていただろうし、東亜子のところにいた第一妻も当然わかっていた。
 
 今もそうだが、家1軒というのは大きな買い物であって、いわゆる太い金だ。失業者のラッキーがとうてい出せる金ではなかった。しかし、なんとかしなければ・・・
 
 ラッキーとラッキーの第一妻は戦前から、借金まみれであった。昭和20年、そもそもラッキーを襲撃した親分のところに、東亜子を連れて行って借金の形にしたのだ。
 
 そのころ、金融業者(今で言う街金)の息子が、藤田小女姫にご執心だったことに目をつけた。ラッキーと第一妻は、金のためにこの話を何とかしようとした。
 
 ところが、東亜子はそのころ、二枚目の映画俳優に夢中であった。
 
 皆さん、結婚って何だと思いますか?
① 結婚式を挙げることでしょうか?
②戸籍を入れることでしょうか?
 ラッキーと第一妻はこの両方をしました。
 
 ところが、二人は一緒に住んだこともなければ、なんでもなかったのです。
 ハワイでの事件後、東亜子のマネージャーだった人とそのグループに守られたと聞きました。戸籍はほどなく離婚という形で抜きました。
 第一妻によって、金だけ出した東亜子の結婚相手はそこのところをさる雑誌に書いていました。
 
 これは余談ですが、東亜子のマネージャーとそのグループの学生時代の写真があったので、どこの学校か調べました。ラッキーも一緒に写っているその写真を持って、東京に隣接した県庁所在地の図書館に行って写真の学帽についている徽章で、校名を知ろうと思いました。
 図書館で付け合わせていると、年配の方が、「これは○○師範学校だろう」といって、学校史を見ると一致しました。
 
 東亜子が思いを寄せていた二枚目俳優の本名が「○○吾郎」です。
 
 ラッキーとその第一妻に東亜子は二度売られた。

吾郎

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 ラッキーがさる組の幹部に約束した金を用意することができたのは、襲撃されてから数年たっていた。私は高校生になっていた。
 
 本名・○○吾郎という名の二枚目俳優に夢中だった東亜子を高利貸しの息子と結婚させて、そこから、金を引き出すというのを実行して作った金だった。
 
 東亜子の支援者も反対した。さるジャーナリストは彼の著書に件の高利貸しの息子のことを「粗野で下品な男」だから、駄目だと書いてあった。
 
 ラッキーと第一妻と東亜子のマネージャーとその取り巻き達は金のために結婚はしなくてもいいから、形ばかりの結婚式と戸籍を入れるということにした。
 世間では結婚式を挙げて、戸籍を入籍したならば、結婚したと考えるでしょう。
 
 ラッキー達の論理はそうではないようだった。結婚式を挙げ入籍したならば結婚詐欺とは言わないと言う。
 
 この頃から、東亜子は「私の人生なかった。私の青春なかった」というようになっていたのだろう。
 
 東亜子の犠牲によって得た金で、ちょうちんは家の建て替えをした。
 
 それから、しばらくして、離婚という形で、高利貸しの息子とのことに終止符を打った。
 
 ラッキーは「吾郎さん、吾郎さん!!」と言う東亜子を見て「吾郎」ならいいと考えた。そして、んばらば「吾郎」を作ろうだった。
 
 こうやって、東亜子のまわりには「吾郎」という名の男の子が何人かできた。
 
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