Quantcast
Channel: 平成の巌窟王・福迫雷太氏はなぜ獄に
Viewing all 202 articles
Browse latest View live

事件後20年でわかったこと

$
0
0
 この2月23日で、東亜子が殺害されてから20年目に入ります。亡くなった者の年を数えても仕方ないですが、生きていれば76歳になるのです。
 
 真犯人について、事件直後、マスコミの方々はほとんどこう言っておられました。
「あの骨を持って行った連中があやしいのでは??」と、言っておられました。
 
 そして、福迫君が移送され、ハワイでの刑事裁判で有罪が確定しました。でも、とても福迫君がやったとは思われませんでした。
 
 私は事件がこれ津やむやになるのだろうと思いました。でも、自分なりに、私の周りで怒ったことや経験したことを掘り下げようと色々調べに回りました。でも、時間がたつと記憶が薄れる心配がありました。
 しかし、さる高名なジャーナリストの方が「時間がたって、忘れられることもあるけれど、時間がたつことによって、言い出せなかったことも言い出せるようになるし、実像が浮かび上がってくr場合がある」と言われました。
 
 今、20年目になって、真犯人について、考えるならば、マスコミの皆様が感じたように、やはり、「骨を持って行った人」に帰着します。
 
 

拳銃

$
0
0
 藤田小女姫殺害事件から、20年目になりますが、あの年の2月も冬季オリンピックが行われていました。
 
 報道機関に遺体の写真を提供しました。
 写真をを専門家に見ていただきました。その結果、「死因は多人数で多数の凶器をもってした」というものだった。
 
 公判記録にはこんなやりとりがあったのを思い出しています。
 
 事件当時、東亜子と同じコンドミニアムの住人が拳銃の音を聞いたと言う証人に対して、弁護側の反対尋問です。
 ・・・・
 弁護士   「証人は本当にピストルの音を聞いたのですか?」
 証人     「この時間に、家ではテレビを見ていました。冬季オリンピックが放送                      されていましたので、スタートのピストルの音だった
                      かも  し  れ ま せん。よくわかりません」
                  ・・・・・・・・・・・
 
 因みに凶器は発見されておりません。それどころか物証は皆無です。
 
 オリンピックのスタートの拳銃音かもしれないような証言が採用されたのですね。
 
 私は日本において、武器としての拳銃の発射音をこの耳で聞いたことがありません。皆様はいかがでしょうか?
 
 今、不思議に思うのはオリンピックって平和の祭典ですよね。それなのに武器の発射音がスタートの合図なのですね。
 
 

二十年前のあの日

$
0
0
 平成6年2月23日(ハワイ時間)、藤田小女姫こと藤田東亜子が自宅コンドミニアムのクローゼットで全裸死体で発見された。
 
 私が聞いた報道や外務省によろ事件経緯を書きます。
 
 東亜子のコンドミニアム最上階の部屋から煙が上がっているとの知らせは日本の外務省ホノルル領事館に電話によってもたらされたそうです。領事館で確認してから、ハワイの消防当局に連絡されたそうです。
 誰による電話であったかはわかりません。
 
 本来、煙が上がっているのであれば、当然、日本の領事館ではなくホノルルの消防当局に連絡するのが最速のはずなのに、なぜ、そうしなかったか考えると疑問が浮かび上がってきます。
 日本領事館に連絡した人物を推測してみます。
 
 1) ハワイの官公庁に連絡することがまずい人物(例えば、不法滞在党)
 
 2) 現地の言葉が不如意な人物
 
 3) 1)、2)の両方
 
 それと、煙が上がったコンドミニアムの部屋が藤田小女姫の部屋であることを知っていた人物
 
 
 後日、私はこのコンドミニアムで、東亜子の部屋の下の下の階に住んでおられた方にお話を伺うことができました。奇しくもその時間帯にご在宅でした。
 それによると、
・・・・突然、館内放送で「火災が起きました、エレベーターが停止しました。階段で地上に降りて下さいとのことでした。それまでは全く静かで、物音などしませんでした。下におりると、エレベーターホールは立ち入り禁止でそのまま階段から外に出されました・・・・
 とのことでした。
 
 東亜子がクローゼットで発見された。
 クロ-ゼットには衣類が一枚もなかった。
 居間では、東亜子の着ていたであろう下着が燃やされ、その煙が窓からでていた。
 
 
 その後、ハワイ警察は事件現場を保全することなく、いろいろな人物が入って備品を持ち出されたようだ。
 
 

無遺言遺産は

$
0
0
 事件から、一ヶ月くらいした頃、 
「無遺言遺産は州(ハワイ州)のものだから、そうならないように、手続きをしましょう」と、弁護士と名乗る男が、骨を持ち去った人物にいってきたそうだ。
 
 私が依頼していた弁護士事務所でそのことを聞いた。
「無遺言遺産は州のもの?ハワイにはそんな法律があるのかな・調べてみます。それにしても、今回のように無遺言遺産と言ったって、殺されているのに遺言は
無いのが当たり前でしょう!!」
 「どこから、そんな話が出てきたのでしょうか?」
 「なんか,日系の二世が動き回っているみたいですね」
 
 こんな状態で,日系人達の間では東亜子のコンドミニアムを巡ってしきりに、動き回っていたのだった。
 弁護士というと,日本では司法試験とかを通過した人などがやっているのだが、あちらでは、そういうのはなくて、アルバイトのようなもので、タクシーの運転手をしながら,時には弁護士などというような場合が多いそうだ。
 
 日本にも、しきりにやってきて、面会を求めたり、私どもの戸籍がいい加減なことも聞き及んでいるらしかった。
 
 彼らはアメリカ国籍と言っても小さな日本人社会を形成している。
 私が不快に感じたのは,殺害された者の遺産をすぐにねらうことだった。
 
 

『女は自分の産んだ子は忘れられない』と、

$
0
0
 私どもの戸籍上の父親であったラッキーとは、私ども家族とちょくちょくとというほどではないが、私が成人してからも所帯をもってからも、折に触れて、何のことはない会話もした。
 
 
 当時、文京区に住んでいたラッキーと第三妻の家に行ったときに、ラッキーが突然
 
 『女は自分の産んだ子は忘れられない』と言った。
 
 家に帰ってきて、家内が「なんで、お義父さん、あんなことをいうの?変ねぇ~、男は忘れられるというの?」と、そのときはそれだけでおわりになった。
 
 
 今、思うととんでもないことだった。そのとき、私はラッキーの子だと思っていた。東亜子が死んで、ラッキーや三人の妻達の間には子が一人もいないと知った上、彼の生き様から、ラッキーの考えていたことの意味を理解できる。
 
 即ち、
 『女は自分の産んだ子が忘れられない』から、子供をさらって、さらった子を人質にして金品を強要すれば、必ず要求に応じる。まして、少しの血縁でもあれば警察沙汰にはしない。
  ということだ。
 
 ラッキーは自分の死期(自殺)近くに人を介して,私のことを「死んだ」と、私の実の母に言ってくるように頼んだ。
 
 
 
 

ダイエットではありません。

$
0
0
 この写真はビアフラの子です。イメージ 1
 
 
 かつての私の姿でもあります。
 昭和23年、福岡県小倉市の明治鉱業(株)の社宅で餓死した祖母とは、今の飯塚市で、遠賀川沿いのゴンゾウ小屋に一緒に閉じ込められていたそうです。
 戸籍上は叔父になるようですが? 台湾からの復員兵の叔父が二人を見たときの状態はこれより酷かったようです。
 この叔父は私がいわゆる仮性餓死であるから、駄目であろうと祖母だけを背負って、連れて行ったそうです。
 
 その後、ラッキーと提灯が私と祖母を社宅に連れて行ったのです。ゴンゾウ小屋の記憶が私の記憶の始まりです。
 東亜子の事件後,四国に行って調べたところ、これは祖父が事件か事故かわかりませんが、死亡した直後のようです。
 四国の疎開していた祖父母が戸畑の自宅に帰ってくるときの様子から、なにかあったようですが、これは後で記述します。
 
 上の写真ですが、私がこのような姿であったのは小学校終わる頃までです。
 
 何度も,書きましたが、このときの家族構成はラッキーと提灯、子供として,連れられてきた子が私と二女、ラッキーの子ではないが提灯の子である三女の5人でした。
 
 小学校の恩師に、40年ぶりにお目にかかりました。
 「おお・・・藤田君,元気だったか・・・こんなに逞しくなって」と、私の手をしげしげと眺めました。
 
 戦後、配給制度というものがありました。
 二女と私はこんな姿なのに三女は丸々と太っていました。私と二女には死なないくらいしか食べさせなかったようです。みんなで、一緒に食事をしたことはありません。
 このブログの「学ラン」の項で掲載した写真は大学の頃です。私の体型はがっちり型です。なのにこのようだったのです。
 
 提灯は私のような姿が写真に残っていてはまずいと思ったのか、私が成人した後
家においてあって写真等を焼却してしまいました。
 
 世間で「生みの親より,育ての親」などと言いますが、それはないでしょうね。
 飢餓状態の子から,配給の食糧をとって,我が子に与えるのが親でしょうね。それが自然の姿です。
 
 私はラッキーも提灯も最後まで自分の口から、私の親を言わなかったことは許せません。まして、自分たちが親であると言い張ったのですから・・
 
 元米軍情報将校、サイディンスッテカー氏はその著書「好きな日本、好きになれない日本」で、
 好きになれない点として・・・日本人は嘘に寛容であること・・・をあげています。
 
 こんな嘘を何でつくのでしょうね。こんな重大な嘘について、よその方は非常に寛容なのには,やりきれない思いです。

遺恨

$
0
0
 東亜子は、戸畑の祖父母の家から,ラッキーの第一妻にさらわれ、飯塚のゴンゾウ小屋、篠栗、小倉の明治鉱業社宅を経て,東京江戸川の吉原関係者である自称[親切なおばさん]に引き渡されるまでの凄惨な生活は、生涯忘れることはなかったと思う。
 
 自称親切なおばさんは、まず、「戸籍はすんだのね」と確認したそうだ。戸籍さえそろえば、なんとでもなったのでしょう。
 そうやって、ラッキーと第一妻は,小学校入学寸前の東亜子を借金の形にした。
 
 私は事件後、第一妻の長男に会った。第一妻の長男は小学校の上級生の時にラッキーと第一妻が仲良くなり、その長男を残して、年上だった彼の姉を飯塚に売って、先に九州に行っていたラッキーの後を追った。
 そして、いくらもしないで、東亜子を連れて東京に来て、借金を清算した。
 
 そのことについて、第一妻の長男は「コトトメさんを、なんでも、九州の小倉とか戸畑とか から、連れてきたみたいです」と、私に平然という。
 私はそれって、立派な人さらいだと思ったが、彼は悪びれる様子さえない。
 
 小学校高学年の長男を残して、一回り年下のラッキーの後を追いかけて行った母親のことを「私はラッキーさんのことを恨んではいない」という。つまり、連れて行ってくれてありがとうということだろう。
 
 東亜子はこのこと生涯の遺恨として,忘れることはなかった。
 
 
 世に言う「有楽サウナ」事件の後、
 東亜子をひいきにしてくれていた財界人がいた。ホテル王ともいわれ、ハワイの観光開発を手がけていた。
 その財界人にハワイのコンドミニアムを贈与された。そこに第一妻を住まわせた。
東亜子はいつもは日本に住んでいたが、時々,出かけた。
 
 ハワイでの生活で、お手伝いさんなどが目撃したことは・・・・
 なにかというと、70歳過ぎの第一妻に暴力を振るうことであった。
 このことは、皆さん不思議がっておられたが、私はさもあろうと思った。それにこの話はどういう経路で伝わった不思議であったのだが、提灯も知っていて、しきりにおびえていたし、「あっちは酷いみたいよ」と言っていたが、私はあっちってどっちなのだと思って,深く考えなかった。
 
 日本にいては遺恨が晴らせなかった東亜子がマスコミがいないハワイで第一妻に暴力を振るったことだということなのだろう。
 
 事件後、どんな風な暴力なのかは詳しく知った。
 しかし、第一妻は東亜子に殴られることで心が落ち着いたのではないかと思う。
 
 というのは、私をさらったラッキーと提灯は最後は二人とも自殺であった。
 
 自殺であったからと言って,私は許すことは出来ない。生きて,自分たちのしたことを話さなければ、それは人間ではないと思っているから・・・
 
 

祖父母のこと

$
0
0
 身近な肉親として、過ごしたのは小倉で餓死した母方の祖母であった。
 
 東亞子のハワイでの事件のあと、私は徳島にある祖母の実家訪ねた。実家の当主は祖母のめいの子であった。
 彼は15,6歳の頃、昭和20年6月頃から21年冬まで、私の祖父母と一緒に過ごしていた。平家の落人の里と言われたこの土地は山高く、谷深しと言うところであった。
 
 彼に「そこの部屋で、ゲンさん(祖父の名)が、面倒を見ていたよ。ゲンさんは口やかましい人だったよ」
 そして、「リハさん(祖母の名)の最後は私が一緒でした」というと、言葉を失いました。
 この山を下りたのは昭和21年2月のはじめでした。
 私も祖母がこの山から下りてきて、いくらもしないときに、飯塚のゴンゾウ小屋で私と一緒になったときのことを思い、何とも言えませんでした。
 
 わすかの間に祖父が死に、家屋敷は奪われ、ゴンゾウ小屋に押し込められたのは、東亞子虐殺とまったく同じです。
 
 祖父の死から49年目の2月です。

祖父母のこと・・・祖父の死

$
0
0
 祖父・源左衛門は若松で、姉とともに八幡製鉄所専属のクラブを経営していた。
 
 祖祖父が八幡製鉄所の創業から関係していたので、そのつながりで、そういうことになったのであろうと思います。
 クラブというとどういう風なイメージを持たれるかわかりませんが、てっとり早く言えば遊郭です。
 
 提灯はじめいろいろな女性が私の周りにはおりましたが、ほとんどが祖父母や祖父の姉の経営する遊郭で働いていた女性達です。
 
 規模は大きかったようです。提灯が写っている鞍替えの写真を四国の親戚に見ていただいたら、思わず、「わっ、こんなに抱えとったぁ!!」と、驚嘆の声を上げました。
 私はこの業界についてどの程度が大規模で細々とというのはどのくらいか見当もつきません。
 

祖父母のこと・・・祖父の死②

$
0
0
 祖父と祖母の実家は剣山系の山深いところで、祖父の山は東山と言っていた。祖母の方は東山から徒歩で40分ほど行ったところにあり、西山といって、次に祖母の家の名字をつけた村落になっていた。両方とも平家の落人の里であった。
 東山と西山が結びついたようでした。
 
 それでも、私の感触として、この西山と東山は、あまり、仲が良くなかったようでした。というのは、「なんで、源叔父は○○○の家の者と一緒になったんだろう?・・・よく、みんなが○○○と騒いでおったわぁ・・・」と、
 どうも、藤田と○○○はいつも、何かにつけ、相対していたようだった。
 
 祖母は西山・○○○家で、兄二人がいて、その次、長女として生まれた。この村落はもとより、どこに行っても美人の誉れ高い人だったそうです。
 私がこの祖母と一緒に過ごしたのは5歳の時で、わずかであったし、当時の祖母は、60歳を過ぎていたので、美人とかそういう記憶はありません。
 
 この祖父母が、昭和20年6月頃、終戦間際の戸畑から、この西山・○○○に疎開に来た。祖父の戸畑の家は市街地の真ん中であった。
 
 戸畑の家を留守にして、終戦を迎えた。
 昭和20年8月15日の終戦も西山で迎えた。明けて、昭和21年、雪が降っていた剣山系の東山に、なにか、若松から連絡があったようだ。
 祖父は東山の甥である当主に、戸畑まで、同道してくれるように頼んだそうだ。
 東山の藤田家の当主はじめみんなは、「雪が深いから、春まで、まったらどうか・・・」と言って、引き留めたそうです。
 
 留守にしていた戸畑の家のことが心配だったのかもしれないし、徴用になっていた長男・竹市(私の実の母の兄)一家が心配だったか、さらわれた東亞子や私のことかわかりません。
 
 なお、東亞子がラッキーの第一妻に連れ去られたときの様子は、東亞子の最初の著書に書かれていて、
 祖父が追っ手を掛けたように書かれています。

祖父の死③

$
0
0
 祖父とその姉が経営していたクラブは、若松にあったが、自宅は戸畑で、今の戸畑区役所に近く、目抜きと言ってもいい。
 私がそこを尋ねたのは東亞子殺害の事件後である。しかし、この場所は長い間、私の本籍地であった。
 そして、東亞子も、戸籍上の結婚まで、ここが本籍地であった。
 
 祖父母達が、剣山系の疎開先から、戸畑の自宅に帰ろうとしたのは、終戦、翌年の1月も末であった。
 四国というと温暖だと思われるが、ここ剣山は西日本では石鎚山に続いて2番目の高さである。
 
 祖父母が福岡・戸畑に向けて出発するときに、雪が降った。祖父母は祖母の実家に疎開していたが、祖父の実家の当主が二人を戸畑まで送っていくことになっていた。
 出発当日、祖母の実家を出た直後、祖父が足を滑らせて、滑落した。途中の木に引っかかり、命に別状はなかった。
 胸を少し打ったようなので、大事を取り、出発を遅らせた。
 
 再度、戸畑に向けて出発したのは2月も半ばになっていた。一緒に行ってくれた藤田本家の当主は屈強な大男であった。
 私はどういう経路で戸畑まで行くのか、その当時は四国と本州には橋が一本も架かっていなかった。
 池田から、愛媛に出るか、岡山に出るか、どちらにしても長旅であった。
 
 祖父の甥・栄一(仮名)は、雪道が過ぎると、長靴を脱いで、短靴に履き替えた。池田からは平地での旅であった。
 
 

祖父の死   ④

$
0
0
 昭和21年2月、雪の剣山系から、九州に戻った祖父母と甥の栄一は戸畑の祖父母の家に到着した。
 山を出るときに履いてきた長靴は、雪がなくなったところから、履き替えていた。
 
 戸畑に到着した。
 誰もいないはずなのに、不審な男女数名が家の中に入り込んで生活している様子だった。
 しかし、不振なと言っても知らない人物はわずかで、後は、3人と顔見知りであった。特に、栄一の妻がいたのには、栄一はもとより、祖父母も驚いた。
 栄一の妻は、栄一が留守の間に、押しかけてきて、居座ってしまった女性だった。終戦前に朝鮮に渡り、いわゆる売春をしていたようだった。
 その話はちょうちんから、よく聞かされた。ちょうちんの姉も行っていて、「挑戦は儲かるから、一緒にやらないか・・・」と、手紙で書き送ってきたと、よく話していた。
 
 不審な男女の仲には、もちろんラッキーやちょうちんもいた。
 
 祖父母、栄一の3人が帰宅したときは、そこにいた男女は出て行った。
 
 数日して、不安を抱きながら、栄一は四国に帰った。
 
 栄一が両人を見たのはこれが最後であった。
 
 
 冬の寒い夜だった。外は雨で、男達の声がした。
 外の騒ぎで、私は薄ぼんやりと、何が起こったかはわからなかったが、・・・これが私の記憶の始まりです。
 
 この時、私が閉じ込められていたゴンゾウ小屋に祖母を押し込んだ。男達が大声で話す様子、雨の音、「トタンにしろ」という叫び声、
 
 この時からいくらもしないで、戸籍上は私の叔父になっている秀夫が、ここに尋ねてくるのであった。
 その時の様子を「びっくりしたなぁ~、もう、・・・戸畑の家にはな~んにもない。誰もいない。洋ちゃんは痩せて、歩けない」と、
 
 つまり、祖父は死に、祖母は、さらわれ、私が押し込められているゴンゾウ小屋に連れてこられたのであった。

祖父母のこと・・・祖父の死と東亞子の死の共通性

$
0
0
 母に会ったときに、最初に聞かれたのは「成城の自宅はどんなようすでしたか?」ということです。
 
 続いて「なんにもなかったでしょう?」と、まるで、そういう事例を知っているかのようでした。
 
 昭和21年2月、祖父が戸畑の自宅に帰着して、送っていった甥の栄一が四国に帰って、すぐ、祖父が消えて、祖母が私が監禁されていた飯塚のゴンゾウ小屋に押し込められたのは、そのすぐ後だった。
 
 そして、秀夫が台湾から帰還して、戸畑の家に行ったときのことを回想して、
・・・びっくりしたなぁ~、もう、 なーんにもなかった・・・と、
 
 東亞子の殺害現場であるハワイ・ホノルルのコンドミニアムでの、写真を見ると、ものらしいものはなんにもなく、クローゼットに遺体が放り込まれていたにも拘わらず、
衣類がなんにもなかった。
 クローゼットに東亞子の衣類があったはずなのに皆無ということだった。
 
 祖父の死と東亞子の死には共通するものがあることを漠然と感じた。
 
 祖父のことをラッキーは貧乏であったと口癖のように言っていた。
 おまけに、私が結婚したときに若かった妻に問わず語りに祖父母のことを話していた。私も隣で聞いていたら・・・
 
 ラッキーは得意になって話していた。
「じいさんは醜男であったが、ばあさんは、美人であった。・・・それに貧乏であった」と、したり顔で話している。
 私にはいつも祖父が貧乏だったと言っていたから、何の不思議もなかったが、妻はその頃若い女性だったから、
 後で、私にこう言う。
 「なんだか、変よね。おばあちゃんは超美人だったっていうのに、おじいちゃんは醜男で貧乏なんでしょう?今はね、家付き、カー付き、ばばあ抜きっていうのよ。100%に近い女性はそんな男のところには、行かないよ」と、
 
 ちょうちんが亡くなって、若い頃の写真が出てきた。
 京都で撮影されたようで、昭和12年と裏に書いてあった。
 その写真は鞍替えの時のらしく、多くの若い女性と引率する人たちが写っていた。私はそれを持って、四国の祖父を知っている人を訪ねた。
 
 「こんなに抱えとったぁ~!!」
 「これは源さんですか?」と、私は自分に似た男を指すと
 「源叔父は、よう、あんたに似とるわぁ~」と、祖父の年代に近くなっていた私に言った。
 
 ラッキーがいつも貧乏だと言っていた祖父は昭和12年、ベンツに乗っていた。
 
 このブログに写真を載せている私が醜男だと言えばそうかもしれないが、昭和12年にベンツに乗っていた男が貧乏とは・・・よく言えた!!
 
 
 

時を超えて

$
0
0
 祖父の死から49年目に藤田小女姫こと藤田東亞子はホノルルの自宅コンドミニアムで、殺害された。
 祖父の場合は戦後の混乱期で事件にもならないで、うやむやにされた。
 でも、祖父の死と東亞子の死が共通点があると私は感じています。
 
 東亞子の事件は、ホノルル時間2月23日頃、祖父の死も2月20日前後、祖父も東亞子も死亡時刻さえ正確にはわかっておりません。
 
 自宅での略奪は共通しています。
 
 東亞子が東京からハワイに行った直後、殺害された。祖父の場合も四国・徳島から戸畑の自宅に帰宅して、わずかでのことだった。
 
 東亞子の遺体も祖父の遺体も遺族は見なかった。
 
 遺骨は両方とも持ち去られて、捨てられたようだ。
 
 東亞子の遺体の状況は、ハワイでの警察当局の遺体の写真で、殺害の状況を想像した。これはさるマスコミ関係者が法医学者に所見を頂いたので、その通りだとおもっています。
 ところが祖父の死亡の状況は犯人のみが知るという状態です。東亞子の写真の状態から類推するしかありません。
 
 この作業をこれからしてみます。

ダイエットではありません。

$
0
0
 この写真はビアフラの子です。イメージ 1
 
 
 かつての私の姿でもあります。
 昭和23年、福岡県小倉市の明治鉱業(株)の社宅で餓死した祖母とは、今の飯塚市で、遠賀川沿いのゴンゾウ小屋に一緒に閉じ込められていたそうです。
 戸籍上は叔父になるようですが? 台湾からの復員兵の叔父が二人を見たときの状態はこれより酷かったようです。
 この叔父は私がいわゆる仮性餓死であるから、駄目であろうと祖母だけを背負って、連れて行ったそうです。
 
 その後、ラッキーと提灯が私と祖母を社宅に連れて行ったのです。ゴンゾウ小屋の記憶が私の記憶の始まりです。
 東亜子の事件後,四国に行って調べたところ、これは祖父が事件か事故かわかりませんが、死亡した直後のようです。
 四国の疎開していた祖父母が戸畑の自宅に帰ってくるときの様子から、なにかあったようですが、これは後で記述します。
 
 上の写真ですが、私がこのような姿であったのは小学校終わる頃までです。
 
 何度も,書きましたが、このときの家族構成はラッキーと提灯、子供として,連れられてきた子が私と二女、ラッキーの子ではないが提灯の子である三女の5人でした。
 
 小学校の恩師に、40年ぶりにお目にかかりました。
 「おお・・・藤田君,元気だったか・・・こんなに逞しくなって」と、私の手をしげしげと眺めました。
 
 戦後、配給制度というものがありました。
 二女と私はこんな姿なのに三女は丸々と太っていました。私と二女には死なないくらいしか食べさせなかったようです。みんなで、一緒に食事をしたことはありません。
 このブログの「学ラン」の項で掲載した写真は大学の頃です。私の体型はがっちり型です。なのにこのようだったのです。
 
 提灯は私のような姿が写真に残っていてはまずいと思ったのか、私が成人した後
家においてあって写真等を焼却してしまいました。
 
 世間で「生みの親より,育ての親」などと言いますが、それはないでしょうね。
 飢餓状態の子から,配給の食糧をとって,我が子に与えるのが親でしょうね。それが自然の姿です。
 
 私はラッキーも提灯も最後まで自分の口から、私の親を言わなかったことは許せません。まして、自分たちが親であると言い張ったのですから・・
 
 元米軍情報将校、サイディンスッテカー氏はその著書「好きな日本、好きになれない日本」で、
 好きになれない点として・・・日本人は嘘に寛容であること・・・をあげています。
 
 こんな嘘を何でつくのでしょうね。こんな重大な嘘について、よその方は非常に寛容なのには,やりきれない思いです。

遺恨

$
0
0
 東亜子は、戸畑の祖父母の家から,ラッキーの第一妻にさらわれ、飯塚のゴンゾウ小屋、篠栗、小倉の明治鉱業社宅を経て,東京江戸川の吉原関係者である自称[親切なおばさん]に引き渡されるまでの凄惨な生活は、生涯忘れることはなかったと思う。
 
 自称親切なおばさんは、まず、「戸籍はすんだのね」と確認したそうだ。戸籍さえそろえば、なんとでもなったのでしょう。
 そうやって、ラッキーと第一妻は,小学校入学寸前の東亜子を借金の形にした。
 
 私は事件後、第一妻の長男に会った。第一妻の長男は小学校の上級生の時にラッキーと第一妻が仲良くなり、その長男を残して、年上だった彼の姉を飯塚に売って、先に九州に行っていたラッキーの後を追った。
 そして、いくらもしないで、東亜子を連れて東京に来て、借金を清算した。
 
 そのことについて、第一妻の長男は「コトトメさんを、なんでも、九州の小倉とか戸畑とか から、連れてきたみたいです」と、私に平然という。
 私はそれって、立派な人さらいだと思ったが、彼は悪びれる様子さえない。
 
 小学校高学年の長男を残して、一回り年下のラッキーの後を追いかけて行った母親のことを「私はラッキーさんのことを恨んではいない」という。つまり、連れて行ってくれてありがとうということだろう。
 
 東亜子はこのこと生涯の遺恨として,忘れることはなかった。
 
 
 世に言う「有楽サウナ」事件の後、
 東亜子をひいきにしてくれていた財界人がいた。ホテル王ともいわれ、ハワイの観光開発を手がけていた。
 その財界人にハワイのコンドミニアムを贈与された。そこに第一妻を住まわせた。
東亜子はいつもは日本に住んでいたが、時々,出かけた。
 
 ハワイでの生活で、お手伝いさんなどが目撃したことは・・・・
 なにかというと、70歳過ぎの第一妻に暴力を振るうことであった。
 このことは、皆さん不思議がっておられたが、私はさもあろうと思った。それにこの話はどういう経路で伝わった不思議であったのだが、提灯も知っていて、しきりにおびえていたし、「あっちは酷いみたいよ」と言っていたが、私はあっちってどっちなのだと思って,深く考えなかった。
 
 日本にいては遺恨が晴らせなかった東亜子がマスコミがいないハワイで第一妻に暴力を振るったことだということなのだろう。
 
 事件後、どんな風な暴力なのかは詳しく知った。
 しかし、第一妻は東亜子に殴られることで心が落ち着いたのではないかと思う。
 
 というのは、私をさらったラッキーと提灯は最後は二人とも自殺であった。
 
 自殺であったからと言って,私は許すことは出来ない。生きて,自分たちのしたことを話さなければ、それは人間ではないと思っているから・・・
 
 

祖父母のこと

$
0
0
 身近な肉親として、過ごしたのは小倉で餓死した母方の祖母であった。
 
 東亞子のハワイでの事件のあと、私は徳島にある祖母の実家訪ねた。実家の当主は祖母のめいの子であった。
 彼は15,6歳の頃、昭和20年6月頃から21年冬まで、私の祖父母と一緒に過ごしていた。平家の落人の里と言われたこの土地は山高く、谷深しと言うところであった。
 
 彼に「そこの部屋で、ゲンさん(祖父の名)が、面倒を見ていたよ。ゲンさんは口やかましい人だったよ」
 そして、「リハさん(祖母の名)の最後は私が一緒でした」というと、言葉を失いました。
 この山を下りたのは昭和21年2月のはじめでした。
 私も祖母がこの山から下りてきて、いくらもしないときに、飯塚のゴンゾウ小屋で私と一緒になったときのことを思い、何とも言えませんでした。
 
 わすかの間に祖父が死に、家屋敷は奪われ、ゴンゾウ小屋に押し込められたのは、東亞子虐殺とまったく同じです。
 
 祖父の死から49年目の2月です。

祖父母のこと・・・祖父の死①

$
0
0
 祖父・源左衛門は若松で、姉とともに八幡製鉄所専属のクラブを経営していた。
 
 祖祖父が八幡製鉄所の創業から関係していたので、そのつながりで、そういうことになったのであろうと思います。
 クラブというとどういう風なイメージを持たれるかわかりませんが、てっとり早く言えば遊郭です。
 
 提灯はじめいろいろな女性が私の周りにはおりましたが、ほとんどが祖父母や祖父の姉の経営する遊郭で働いていた女性達です。
 
 規模は大きかったようです。提灯が写っている鞍替えの写真を四国の親戚に見ていただいたら、思わず、「わっ、こんなに抱えとったぁ!!」と、驚嘆の声を上げました。
 私はこの業界についてどの程度が大規模で細々とというのはどのくらいか見当もつきません。
 

祖父母のこと・・・祖父の死②

$
0
0
 祖父と祖母の実家は剣山系の山深いところで、祖父の山は東山と言っていた。祖母の方は東山から徒歩で40分ほど行ったところにあり、西山といって、次に祖母の家の名字をつけた村落になっていた。両方とも平家の落人の里であった。
 東山と西山が結びついたようでした。
 
 それでも、私の感触として、この西山と東山は、あまり、仲が良くなかったようでした。というのは、「なんで、源叔父は○○○の家の者と一緒になったんだろう?・・・よく、みんなが○○○と騒いでおったわぁ・・・」と、
 どうも、藤田と○○○はいつも、何かにつけ、相対していたようだった。
 
 祖母は西山・○○○家で、兄二人がいて、その次、長女として生まれた。この村落はもとより、どこに行っても美人の誉れ高い人だったそうです。
 私がこの祖母と一緒に過ごしたのは5歳の時で、わずかであったし、当時の祖母は、60歳を過ぎていたので、美人とかそういう記憶はありません。
 
 この祖父母が、昭和20年6月頃、終戦間際の戸畑から、この西山・○○○に疎開に来た。祖父の戸畑の家は市街地の真ん中であった。
 
 戸畑の家を留守にして、終戦を迎えた。
 昭和20年8月15日の終戦も西山で迎えた。明けて、昭和21年、雪が降っていた剣山系の東山に、なにか、若松から連絡があったようだ。
 祖父は東山の甥である当主に、戸畑まで、同道してくれるように頼んだそうだ。
 東山の藤田家の当主はじめみんなは、「雪が深いから、春まで、まったらどうか・・・」と言って、引き留めたそうです。
 
 留守にしていた戸畑の家のことが心配だったのかもしれないし、徴用になっていた長男・竹市(私の実の母の兄)一家が心配だったか、さらわれた東亞子や私のことかわかりません。
 
 なお、東亞子がラッキーの第一妻に連れ去られたときの様子は、東亞子の最初の著書に書かれていて、
 祖父が追っ手を掛けたように書かれています。

祖父の死③

$
0
0
 祖父とその姉が経営していたクラブは、若松にあったが、自宅は戸畑で、今の戸畑区役所に近く、目抜きと言ってもいい。
 私がそこを尋ねたのは東亞子殺害の事件後である。しかし、この場所は長い間、私の本籍地であった。
 そして、東亞子も、戸籍上の結婚まで、ここが本籍地であった。
 
 祖父母達が、剣山系の疎開先から、戸畑の自宅に帰ろうとしたのは、終戦、翌年の1月も末であった。
 四国というと温暖だと思われるが、ここ剣山は西日本では石鎚山に続いて2番目の高さである。
 
 祖父母が福岡・戸畑に向けて出発するときに、雪が降った。祖父母は祖母の実家に疎開していたが、祖父の実家の当主が二人を戸畑まで送っていくことになっていた。
 出発当日、祖母の実家を出た直後、祖父が足を滑らせて、滑落した。途中の木に引っかかり、命に別状はなかった。
 胸を少し打ったようなので、大事を取り、出発を遅らせた。
 
 再度、戸畑に向けて出発したのは2月も半ばになっていた。一緒に行ってくれた藤田本家の当主は屈強な大男であった。
 私はどういう経路で戸畑まで行くのか、その当時は四国と本州には橋が一本も架かっていなかった。
 池田から、愛媛に出るか、岡山に出るか、どちらにしても長旅であった。
 
 祖父の甥・栄一(仮名)は、雪道が過ぎると、長靴を脱いで、短靴に履き替えた。池田からは平地での旅であった。
 
 
Viewing all 202 articles
Browse latest View live


<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>