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Channel: 平成の巌窟王・福迫雷太氏はなぜ獄に
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無理心中未遂の後で

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 ちょうちんは三女に手をかけたり、私には江戸川への入水心中を強要したりして、いずれも未遂に終わった。

 その後、ラッキーは、もともと、返ってくる日が少なかったが、さらに少なくなった。

 珍しく、ラッキーが帰ってきた日だった。家中の包丁とマッチを集めていた。何でだろうと不思議だったが、「かあちゃんが、包丁を投げて困るから、隠しておかなければいけない! マッチで家に火を付けて困るから、マッチも隠さなければ・・・」と言って、マッチと包丁を集めていた。

 ラッキーが帰ってこなければ、陰々滅々だったが、帰ってきてもそんな有様だった。そういう日が何ヶ月も続いた。

 

バカヤロウ

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 顔アイコン
>ちょうちんは

仮名にしろバカヤロウ
ものなのか人なのかわかりゃぁしねーだろうが 削除
2015/5/24(日) 午後 11:16 [ re**u*g*2*0l ] <<コメントに返信する


 上記のコメントは先日、無題「無理心中の後で」の項に投稿されたコメントです。 

 

 思えば、バカ、馬鹿、バカヤロウ、バカスケ、馬鹿助の毎日でした。
 ラッキーは主に馬鹿助、バカスケと、殆ど毎日私をののしり続けました。上記のコメントの様があまりに似ているので、あるいは、星の数ほどいるラッキーの血縁者ではないかと思い巡らしました。
 ちょうちんのよれば「ラッキーさんの子どもは数え切れないくらいいるんだから・・・でも、みんなどうしようもないのばかりなんだから・・・あんたら、借金残されないように気をつけな」と、私どもに言っていた。  

 上記のコメントされた方にお尋ねします。
1,貴殿はラッキーの星の数ほどいる血縁者の一人ですか?
2,バカヤロウとかバカスケとかは好んで使われるのはなぜですか?
3,貴殿は自分以外はバカヤロウ、とかバカスケと、いつも思われているのですか?


 バカヤロウやバカスケと言わなくなったのは、私が13,4才の頃だった。つまり、中学1年か2年の頃だった。
 いつもいないのに、珍しく帰ってきた。
 「どうだ、腕相撲でも、やらんか」と、横柄の口ぶりで言ってきた。
 非力なラッキーでも、大人だ。40才の半ばだったと思うが、50才にはまだ、まだ、時間があったと思う。
 私は、鉄棒や逆立ちは得意であったが、腕相撲というのは、あまり、やらなかったが、受けて立つことにした。

 テーブルの上で取り組みが始まった。
 二女や三女も見ていた。
 やってみると、大人のくせになんのことはなくて、顔を真っ赤にして、力んでいる。すぐにねじ伏せようと思ったが、可哀想になって、かなりの時間相手をしてやった。そのうち疲れて、ホールドアップしたが、「参りました」とは言わなかった。
 「ふん、参りましたというのは、死ぬ、ちょっと、前だかな」だと・・・

 こういうことがあってから、ラッキーは「バカスケ、バカヤロウ」とは言わなくなった。

 久しぶりに「バカヤロウ」の台詞を聞いた。やはり、血縁者かな?

                                                                                               

バカ、馬鹿・・・

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 子どもの頃から、私のことをバカ、馬鹿・・といつも言っているラッキーを子供心にも、この人は「本当に私の父親であろうか?」と、思ったことは何度もあった。
 そして、ラッキーの容姿をみて、この人は「本当に日本人であろうか?」と、思ったことも再々あった。

 そんな私の疑問を打ち消すことにしたのは戸籍である。
 戸籍には藤田ラッキーとちょうちんの長男として載っている。東亞子も藤田ラッキーと第一妻の長女として、記載されている。

 戸籍って、いったいなんなのでろう?
 二女は藤田ラッキーとちょうちんの二女として記載されている。私も二女もラッキーとちょうちんとは何の関係もない。
 早くから、事情を知っていた二女はいう。「あれはね。紙の上での物語だから、あんなのはあてにならないのよ」と・・・
 今思うにまさにその通りだ。

 ならば、なぜ、国家があんな物を作るのか?
 現に戸籍のでたらめを確認するかのように“親子関係不存在の確認”や”親子関係存在の確認”などというものがある。
 私の場合、自分の身分を知ったときにすぐに直そうと、弁護士に相談した。「今はDNA鑑定で確認できるのですが、両親になっているのが2人ともなくなっているから、無理です」とのことだった。

 昔、人さらいを生業にしている男の戸籍には養女が何人もいたそうだ。
 そういえば、東亞子をラッキーの第一妻から受け取った人は言う「戸籍は済んでいるのか、確認したら、済んでいるから、大丈夫だと言っていたのよ」と、
 そうやって、東亞子はラッキーとその第一妻の借金の形になったのだ。

 戸籍って、一体、何なんだ?
 物語なら物語、確認が必要なら、「真偽のほどは各人で確認のこと」と、注釈でも付けるべきです。バカでも素人でも判るように!!
 

再度のバカヤロウ

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 先日、「バカヤロウ」 と罵るコメントがラッキーの言いように似ていたので、それについて記事にしました。それに対して、又、下記ようなコメントが来ました。愉快ではありません。無視すれば良いのでしょうが、あまりに言っていることが滑稽なので記事にしました。
 しかしながら、このような罵詈雑言のコメントをしないで下さい。次からは削除します。

・・・・・・・・・・・・・ 
 バカに反応してんじゃねぇよバカヤロウ

実名が 山田 だったら、仮名は ちょうちん じゃ何が何だかわからねぇだろうが。

そういうのはあだ名ってんだよ。

山田 を 木村 に変えるのが仮名。

名前は変わっても読む人は「人間だな」とわかるだろ? 削除                        
2015/6/16(火) 午前 1:20 [ re**u*g*2*0l ] <<    」
                        ・・・・・・・・・・・・・・・・

「実名が山田だったら、仮名がちょうちんじゃ何が何だかわからねぇだろうが」について、
 コメント主はちょうちんというのはラッキーの第二妻だとわからないようですね。仕方がないです。理解力の不足ではないでしょうか・・・

「山田を木村に変えるのがのが仮名」だそうですが、変な人ですね。藤田ラッキーやちょうちんを木村に変えたら「藤田 木村」となってしまって、集合住宅の郵便受けみたいですね。ハッッハハ

「名前は変わっても読む人は「人間だな」とわるだろ?」だそうです。
お言葉ですが、物の名前と人間の名前が同じであってはならないのでしょうか?
例えば、山田ついでに「山田五十鈴」さんは五十の鈴ですが、人間の名前ですよ。
動物の名前だってありますよ。
 以後くだらないコメントは削除いたします。バカヤロウと言いたかったのでしょうね。

住居不法侵入

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 私どもが東京に来て、いくらもしない頃から、ちょうちんは、ラッキーの第一妻が東亞子を江戸川近くの自称親切なおばさんに引き渡した。
 その親切なおばさんの家に入り浸りであった。九州の田舎から出てきたばかりなのに誰に案内されたわけでもなく、頻繁に出入りしていた。
 ちょうちんは、生涯、この「親切なおばさん」とは、古くからの知り合いだとは言わなかったが、二人の関係を私に知られては困る何かがあった。

 そんなちょうちんに連れられて、ラッキーの第三妻になる住まいに留守中にラッキーの事務所の事務員(?)と、私、二女、三女と、都合5人で入り込んだ。
 合い鍵を持っていたらしく、なんなく、ドアを開けて、入り込んだ。思えば、東京に出てきたばかりのちょうちんが江戸川から麻布だと思う場所に、迷いもせずに行ったのだ。

 ラッキーと第三妻の住み家に入り込んで、子どもの達はそれがいけないことであるとは知らなかったが、私は少し変だと思った。

 そこではタンスの引き出しや戸棚を開けて、ごそごそと何かを探しまくっていた。そして、なにか手紙のような物を読み上げたりしていた。
 そして、お茶を飲んだりして、帰ってきたが、ちょうちんと事務所の女は何か持ってきたようだった。

 子ども連れで、住居不法侵入だ。ほんとに教育上良くないですね。
 ちょうちんは自分の子である三女とはこれからもずーっと、一緒にこのような行為をともにしていた。

 でも、これがちょうちんの悪行の始まりだったとは思わなかった。
 

住居不法侵入その後

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 小学生だった私どもが福岡から上京してきたのは9月のはじめだった。

 普通なら、当然、転居先の小学校に転校しているはずだろうが、学齢に達していたのは私と二女だったが、どこにも行っていなかった。
 年が明けて、かなりした頃から、近くの小学校に通い始めた。

 学校に行かなくても別になんともなかったが、東京の小学校は給食があったから、欠食児童だった私は命ながらえた。感謝している。

 そんなある日、学校から帰ってくると使用していない風呂場にどこかで見たことがある荷物が高く積み上げれてあった。

 よく見ると、あのちょうちんなどと入ったラッキーの第三妻宅にあったタンスや食器などであった。
 それも、あそこにあったものが全部運び込まれていた。箸やちゃわんなど生活用具全部である。
 私と二女が学校に行っている間に運び込んだのだが、三女も一緒に行ったのだろう。

 でも、これがラッキーをして、東亞子に災いが及ぶとは夢想だにしなかった。

散々なこと

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 ラッキーの第三妻の家財道具が運び込まれたその日だったか、その次の日だったか、ちょうちんはこんなことを言って浮かれていた。
 「ラッキーさんは、○○駅(国電でいつも使用している駅)の近い暗がりで、松田さんに(ラッキーの事務所の女性)殴られたり、ネクタイで首を絞められたり、Yシャッツはぼろぼろになって、・・・・大変だったよ。本当にラッキーさん、散々な目に遭っていたよ・・・・」と、笑いをかみ殺しながら話していた。その現場にちょうちんや三女もいて見ていたようだった。

 その後、ことの詳細をラッキーの話や「親切なおばさん」の話を総合すると・・・

 ラッキーの第三妻の家から、家財道具を一切合切、持ち込まれたその日、その夜、ちょうちんを詰問しようと、○○駅に降りて、家に向かおうとしたら、数人の男に暗がりに引き込まれて、殴る蹴るの暴行を受けた。

 この時から、ラッキーは家には帰ってこなかったが、かなり、経ってから、帰ってきて、こう言った。
 「人間は・・・な、頭を踏んづけられると、どうしようもないんだ」と、

 つまり、ラッキーはちょうちんが依頼した人物達に、頭を踏んづけられ、多額の金を持ってくることを約束させられたのだった。

 第三妻の家に不法侵入したときから、このことを計画して、実行したのだった。

 ラッキーが金を調達するには東亞子のところ行かねば、金の調達などでできなかった。

 こんなに手際よくラッキーを締め上げるのは、もちろん、ちょうちんだけではなくさる暴力団に、依頼したのだろう。

容姿

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 ラッキーは、私に「見てくれはどうでもいいのだ。格好を気にするな」と、言っていた。単に、自分の信条として言っているのではなく、しつこいくらい、言っていた。

 今、思うに、こんなところにも彼の出生に対するやりきれなさがあったのだと思う。

 何度も書いているように、ラッキーの容姿は、身長は小さく、顔は白人そのもので、はっきり言って醜男でした。
 私はそのことについて何とも感じなかったのですが、知らない人は異様に思ったようでした。

 そもそも、祖母は私の母を四国で産んだあと、祖父と長男と一家で、福岡に行った。祖父の父(私には祖祖父)が、明治維新の前から、九州に行っていて、官営八幡製鉄所の創業の頃から、関係していたので、祖父の姉も一緒に行った。

 祖母の次兄は、明治になって、北海道に渡り、その後、ロシアの方に行っていた。日露戦争が起こって、日本軍と一緒に戦って、いろいろ協力した。その縁で、日本軍の軍人と親しくなり、日露戦争終結とともに一緒に帰国したそうだ。
 福岡に住み、川筋者の親分として、遠賀川一帯に幅をきかせていたようだ。
 
 そこへ四国の田舎から出てきた祖母は行った。
 悲劇はそこで起こった。川筋者と言えば、ヤクザの代名詞であった。そこで祖母は兄の子分でロシア人みたいな男に襲われた。
 産まれたのがラッキーだった。

 ここで、日本の戸籍がカバーできないというか変なところです。祖父の次男として戸籍に入ってしまいました。
 このことは四国の実家にも言っていませんでした。ラッキーの存在さえ隠したようです。戸籍もラッキーが産まれてから、3,4年経ってから、記載されています。

 いくら、戸籍にラッキーが祖父の次男として記載されようが、祖父とは似ても似つかぬ容姿です。

 祖父母はラッキーの存在自体を隠していたので、ラッキーを戸畑の家に入れることはなく、ロシア人様の川筋者(この男は人さらいをやっていた)のごんぞう小屋で過ごした。
 ラッキーは大きくなって、戸畑の家に行ったら、・・・
 歓迎されるわけもなく、よく、こう言っていた「ばあさんは、わしが寝転んでいると蹴るんだよ。いつもなんだから・・・」と、

 そのことを妻に話したら・・・
 「そりゃ、そうでしょう。お義父さん、そのロシア人みたいな人に似てるでしょう。だから、顔を見ると、怖かったことを思い出してしまうのよ。悲しいね。お義父さんには責任がないのに、でも、女は恐怖だったのよ」と、

容姿・・・2

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 東亞子がハワイで、殺害された後、テレビや新聞で、養子の吾郎の写真が掲載されていた。
 その第一印象はなんとラッキーに似ていることかと思った。

 その前に、ハワイで生活していた故・吾郎が日本に来た頃、週刊誌などにあたかも、東亞子の支援者である財界人と東亞子の実子であるかのような記事を何度も目にした。
 それで、事件後、東亞子と親しかった方々に「吾郎は東亞子に似てましたか?」と質問した。
 いずれも「似てないよ。コトトメちゃんは長い顔でしょう。吾郎ちゃんは丸顔で、全然感じが違うよ」と言うし、我が子のことに話が及び「コトトメちゃんは○ちゃんにそっくりだったよ」と、

 なぜ、ラッキーが容姿に拘ったか・・・

 この項、加筆します。

容姿・・・祖母

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 今日、8月9日は長崎の原爆記念日です。

 昭和23年、2月、福岡県小倉市で餓死した祖母は、我が子を除いて、私が接した最後の肉親です。
 私どもの母は長崎の芸者でした。このことを私は東亞子がハワイで殺害されてから知りました。
 でも、祖母と一緒だった小倉の社宅でのことをいつも思いだしていました。

 祖母は今で言う脳梗塞で、足が不自由でした。よく、障子に掴まって、歩行練習をしていました。小倉の社宅に来てから、食事はなかったようだ。
 「よくなったら、ここに連れて行ってあけるからな・・・」と言って、アルバムの写真を指さしていました。そこは長崎の眼鏡橋でした。
 母はそこから丸山の花街に通っていたようだった。祖母はもちろんみんなでよく出かけたことを聞いたのも東亞子がなくなってからだった。
 東亞子も私もそこでうまれたようだ。

 祖母の実家を尋ねたら、ご近所の方も皆さんがおしゃるには、祖母はたいそうな美人であったそうです。人の美醜はほんとの主観ですから、どうでもいいのですが・・・
 5才であった祖母が、一緒の寝床で、語った最後の言葉は彼女の遺言だと思っています。
 
 それから、20年以上経ち、私が結婚するので、ラッキーに妻を紹介した。そのとき、ラッキーはこんなことを言い始めた。
「ばあさんは、美人であったが、じいさんは醜男であった」と、・・・
 ラッキーはいつも私に「人間は見てくれはどうでも良いのだ」と、言って容姿に気をとられるなと言っていた。
 このときのことを妻はよく覚えていて「お義父さんは、自分が醜男なのはおじいちゃんに似たと言いたかったのね」
 今思うと、ラッキーが祖父の写真を誰にも見せずに廃棄していたのは、こんな嘘を吐くためだったのか・・・

 先年、祖母の言っていた長崎・眼鏡橋近くに行ってきました。検番がいまでもありました。丸山も行きました。
 祖母と東亞子と一緒に行きたかったです。
 
 人は飲まず食わずだと何日くらい生きるのでしょうか?
 私は5才だったので数の概念がなく、一緒にいたのは何日くらいだったかわかりません。
 

空襲

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 お盆休みの帰省で、Uターンラッシュが続いているようですね。

 70年前、終戦の2,3ヶ月前に祖父母は徳島県の祖母の実家に身を寄せました。祖母も祖父も剣山系・平家の落人部落の出身でした。
 
 ハワイでの事件の後、私は、ここに何度か行ってきました。祖父母の様子を聞きたかったからです。山は峻険で、自分の車は駅に置かせて頂き、タクシーで行きました。
話によると、何度も車ごと落輪して谷に落ちる車両が後を絶たないそうです。

 この山深いところに祖父母は、なぜ行ったのか?と言う疑問があった。ただ、疎開していたと言うことしか判らなかった。

 実の母には兄がいた。つまり、私にとって伯父である。伯父の子たちは私とは従兄弟同士である。その一人は東亞子と同い年で、一緒に遊んだ記憶があるとのことだった。
 その従兄弟達は祖父母と同居していた。そして、東亞子とも一緒に遊んでいた。従兄弟は輪つぃの疑問に答えてくれた。
 「原爆投下の候補地に小倉があったことを覚えているでしょう。八幡製鉄所があるので、空襲が酷くて、みんな疎開させられたの・・・私たちは母の故郷の大分だった。みんな別れ別れになちゃった」

 そして、終戦を徳島で迎えた祖父母は、翌年2月、下山して、戸畑の家について見た物は不逞の輩に占拠されてた家だった。

 徳島に行く前に東亞子がラッキーの第一妻に連れ去られた。その時には、祖父が追っ手をかけたようだった。東亞子の本にはその様子が書かれていた。

 もう、70年になるのですね。
 

明日、8月23日、テレビ朝日で

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藤田小女姫殺害事件と福迫君に関する放送があるそうです。よろしかったら、ご覧下さい。

明日、8月23日、テレビ朝日で、感じたこと

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 昨夜、テレビ放送されたのに関して、かんじたこと

 なぜ、福迫君は知っていることを話さないのか疑問に思いました。私は非力の彼が単独で、やることは不可能だと思っていました。冤罪はあってはならないことですから、彼のご家族に連絡を取って、釈放の嘆願書を毎年、ハワイ当局に提出しておりました。
 これは私の手前勝手でしょうが、福迫君が知っていることを聞きたかったからです。

 今回のテレビでの報道では、真犯人に家族に危害を加えるという脅迫に屈して、なにも話さないと言うことでした。

 甚だ残念です。

 伝え聞くところによりますと・・・
 「寝いているコトトメの首に太い腕で、絞めて・・・」とのことですが、私の戸籍上の母親となっていたちょうちんが死んで、3ヶ月ちょっとの時でした。東亞子は56才でした。
 56才の老女の首を絞めるというような卑怯男の手にかかって、私の無念察して下さい。

 福迫君が家族のために真犯人をかばうとすれば、東亞子は浮かばれません。私だって、会いたかった。生きて、バカぱっぱなしたしたかった。
 事件の後、東亞子の面倒を見てくれていた方は「○○ちゃん(我が子)に会っていれば、もう、放さなかったよ」と、

 私どもが会えなかった最大の障害はラッキーもそうですが、ちょうちんも、私どもが会うことを邪魔していました。ラッキー亡き後の最大の障害が取れたのです。
 
 身辺整理をして、もうすぐと言うときだったのです。奇しくも祖父母が死んだ2月の出来事でした。

 祖父がしんでから、49年、祖母が死んでから52年目の出来事でした。

 福迫君には語って欲しいです。なにも話さないのでしょうか??

犯人は何の目的で・・・

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 凶行に及んだのでしょうか・・・

 怨恨ないしは金銭目当てでしょうか?

 被害者は養子・吾郎と藤田小女姫こと藤田東亞子です。主たる目的はどちらであったのでしょうか?


 福迫君は金銭目的だとされていますが、それならば吾郎も東亞子も殺害してしまえば金銭が手に入らなくなります。なぜならば、福迫君は吾郎のカードを使っていたと聞き及んでいます。カードの決済は請求が東亞子の事務所に来ていたのですから殺してしまえば、目的を果たすことが出来ません。不思議です。
 このことをなぜ福迫君は証言しないのでしょう?

 私はこの疑問は未だに解けません。
 
 

NSX,とアキュラ

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 21年前、2月23日の時点で、福迫君は28才、故・藤田吾郎は21才でした。ともに無職です。吾郎のこともいろいろ聞き回りました。

 大変浪費する子どもであったようです。小学生(と言っても、ろくに学校に行っていませんでした)友達を沢山集めて、ホテルで食事会を頻繁にしていたようです。そのホテルは東亞子が懇意にしているホテルでした。
 しかし、小学生の分際で、ホテルに予約したり、予算を組むなどするなど、面倒なことがあるのに其れをしていたと言うことは、大人の手配があったと考えるのが妥当ではないかと思います。

 誰が手配したかと考えるときに吾郎の影になり、日向になっていた人では??

 吾郎は日本ではホンダ・NSXを所持していました。
 そして、ハワイでは、吾郎自身の棺桶になったホンダ・アキュラです。

 21才になったばかりの無職で、なにもしていない吾郎が所持すろう言うことは浪費の証でもあるようです。ハワイのおけるアキュラのほうは福迫君も使用していたとの話もあります。

家庭内暴力

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 事件が起きて、東亜この様子を何も知らない私は、彼女がどんな生活をしていたか知ろうと思って、できるだけ東亜子の近くにいた人々に話を伺うことにした。
 近くというと、秘書の方、お手伝いさん、ご近所、の方々です。マスコミ関係者とか、仕事関係などは緊張したなにかがあるので、それは表として、日常の生活を知りたかったのです。
 それと、吾郎を知る人を探しました。

 まず、東亞子と吾郎はどうだったのか?
 
 ある方は・・・・・・・「最初、テレビで先生(東亞子のことを皆さんこう呼んでいました)が、殺されたと聞いて、誰がやったかというは、一番最初に思い浮かべたのは吾郎ちゃんでした。でも、ちょっとしたら、吾郎ちゃんも殺されていて、違うのだなって思いました。
 いつも・・・ね。吾郎ちゃんは先生に暴力を振るっていて大変でした。それに暴れて、もう、見ていられませんでした」・・・・と、
 「どんな理由で、暴力を振るうのですか?」
 「理由はよくわからなかったのですが、成城の家には、漫画がたくさんあったでしょう」
 「えぇ・・・大きな段ボール箱に何箱もありました。捨てるのに大変です」
 「あれなんかも、先生は嫌がっていました。それとお金のことなんかも・・・あったんんでは??」

 吾郎は小さい頃から、学校はほとんど行かなかったようです。学校から父兄である東亞子に何度も何度も呼び出し状などが来ていた。
 小学校はどこに行ったか知らないが、吾郎はほとんど、名古屋の別荘で過ごしていたようだ。別荘の荷物を取りに行ったら、別荘の近所の方が、「吾郎さんとなにかお母さんみたいな方と一緒に住んでおられました」と、いわれた。だから、学校から成城の家に呼び出し状が来ても、誰も無視したのでしょう。

 東亞子に暴力を振るっていたのはかなり、大きくなってから、21歳で死ぬまでの間であったと思う。
 前記事に書いたようにNSXとアキュラなど、高額なスポーツカーなど、無職で無収入なのに買い与えるということは吾郎の暴力の果てであったのか?

 それから、吾郎が私の近くの全寮制の中学校に入ったが1ヶ月ほどでやめているのを知ったので、この学校に問い合わせたが、ご返事いただけませんでした。

雛は・・・1

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 事件が起きるまで、私はラッキーとちょうちんの子だと思っていました。いつも、第一妻の凶暴さをちょうちんは「二人でとっくみあいのをしていた。○枝(第一妻の名)とは仲が悪かった」と、祖父と第一妻の関係をいっていました。
 それで、小さい頃から、東亞子を連れて行って、一緒にいる第一妻に会ったならば、ひどい目に遭うだろうと・・・
 
 それもありましたが、このちょうちんの方が私にとって困っていました。この女がいなくなったら、東亞子に会いに行こうと思っていました。

 事件は、ちょうちんががんセンターで亡くなった3ヶ月後のことでした。ちょうちんの事後処理を弁護士に依頼して、次女と三女に話をつけ、会いに行こうと思っていた矢先の出来事でした。
 ちょうちんの死を平成5年9月30日午後11時59分と医師は確認しました。

 翌、2月23日にハワイの自宅で東亞子は死体で発見された。同じく吾郎も死亡していたが死体には蛆がわいていたそうだ。

 ちょうちんの葬儀を私が喪主になって執り行いました。今、思うと、ちょうちんは東亞子の事件を予測していたように「自分が死んでも、九州の連中に連絡しては駄目だ」と、何度も繰り返していました。

 ちょうちんも自分が死んだら、私が東亞子に会いに行くことはわかっていて、私も自分の本当の身分を知ることは確実だと思っていたのでしょう。
 そして、九州から出たきた者たちが東亞子の周りを徘徊していたこともつぶさに知っていたのでしょう。
 ハワイで、東亞子が第一妻に暴力を振るっていたことを知っていて、「あっちはひどいみたいよ」と、私どもにいっていた。

 「吉○さんちは怖いから・・・」とも、言っていた。自分がラッキーを痛めつけるように依頼したくせに、最後まで勝手な女だった。
 
 このとき、まさか、東亞子と私の誘拐に深く関与していたとは知らなかった。

 自分の身分を知ってから、どこで、どのように誘拐されたか、調べることにした。
 
 東亞子と私は5歳の差があります。私には実親と一緒にいた記憶がありませんが東亞子は小学校はいる直前まで一緒にいたのですから、当然、実親の記憶があります。

鷹匠の雛は

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 自分の身分を知ってからの私は、ラッキーや第一妻の所業を詳らかにしようと思って、北は北海道、南は福岡、時間を作って、知り合いや東亞子の遺品から出た手がかりを元に歩いた。
 それと、知らなかったとはいえ、私は彼らの渦中にいたのだった。
 
 まず、私は飯塚のごんぞう小屋に監禁されていたことは、早くから、わかっていた。
 でも、東亞子は私より5歳年上なのだ。私は3歳にもならないから、自分自身がさらわれたことさえわからなかった。
 しかし、東亞子は小学校に入る寸前であった。長崎で、祖母や母と一緒で、しかも戸畑の祖父の家に女中さんに連れられて、祖父母の家に通っていたそうだ。同い年の従姉妹と遊んでいたそうだ。
 
 祖父母の家で、遊んでいた東亞子をラッキーの第一妻が買い物姿で現れて、「一緒に買い物をしよう」と、誘いそのまま、誘拐した。これは、東亞子の死後、物心ついてから初めて会った私に母が、東亞子の言葉として私の教えてくれた。
 
 小学校6年の夏まで、過ごした明治鉱業の社宅近くで、明治鉱業の社員の方にお話を聞くことができた。
 東亞子と同じ年頃のその方達は、東亞子が換金されていた様子を知っていた。

 私が住んでいた明治鉱業の社宅とは違った場所だった。小倉に行く前の場所とはいえ、社宅で大胆にも東亞子を監禁していた。
 道路より高い場所にあったその社宅で時々女の子の姿を見かけたが、外に出てくることはなかった。
 
 小学校にはいる直前の東亞子は、自分の親たちのことを知っていたし、自分がさらわれたと言うことも知っていた。
 東亞子を受け取った方が一番心配したことは、さらった子であるのがばれることだった。
 まず。東亞子をラッキーや第一妻のことを「お父さん」「お母さん」と呼ばせることだった。

 鷹匠が雛を得て、自分を親だと思い込ませるには、極限まで、餌をやらないで、死ぬ寸前になってやると雛の鷹は、鷹匠のことを親だと思い込むのだそうだ。
 その方法を東亞子にした。
 さらった東亞子に食べ物をやらないでいて、・・・
 飢えた東亞子の前に食べ物を出し、これをやるから、ラッキーを「お父さんと呼べ」「第一妻をお母さんと呼べ」と迫った。
 拒否した東亞子の目の前で、彼らが食べてしまった。

 こんなことが何度か繰り返された後、東亞子はやむなくラッキーを「おとうさん」第一妻を「おかあさん」と呼んだのだろう。
 幼児ともいえた東亞子が自分の魂を・・・・・・・・無念だったろう。

 後年、成城の100坪超えの豪邸で、食べ物は、政財界の有力者から送られた高価な高級食品を少しだけ、かじって「捨ててしまいなさい」といって、捨てさせた。
 まわりにいた方が「そんなもったいないことをしないで、皆さんに、少しずつ、小分けにして、持って帰っていただいた方がよろしいでしょう」と、忠告しても「捨ててしまいなさい」一点張りだったそうです。

 このことを聞いた私は、魂を売った東亞子の苦しみがわかっていたたまれなかったです。

 ちょうちんは私が我が子を連れて江戸川の家に行くと、すぐに帰りたがる私の子に対して「餌をやる人には懐くわぁ!!」と言った。
 妻はこの言葉への不快感を今でも言っている。

 


 
 

親告罪

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  最近、強姦罪は親告罪ではなくなったのですね。一つの進歩でしょう。

 女性が襲われて、妊娠にしてしまった時のことをなんと考えていたのでしょうか?
 その影響は、計り知れません。

 やくざの親分であった祖母の兄は、多数の川筋ものを手下に、遠賀川沿いで、手広く縄張りを広げていた。
 そこに、徳島の田舎から出てきた祖母は襲われた。祖父と祖母の間には長男(私の伯父)、長女(私の母)がいた。
 襲われてから、男児を出産した。それが見るからに白人であった。襲った男と同じようなロシア人のような児であった。
 戸籍は入れないで、襲った男のごんぞう小屋で、育てられた。

 祖母がラッキーとちょうちんに  よって餓死させられたのも、私や東亞子をさらったのも、このことから始まったのだと思っています。

 戸籍は、もはや制度的にもざるでしょう。いつの間にか、とんでもない場所の役所で、祖父の次男としてラッキーが届けられていた。

最初の吾郎

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 事件後、成城のマンションには秘書と名乗る女性が住居を占領していた。裁判所から、管財人が選定されて、私どもが入ったのは、事件から半年以上たっていた。
 秘書と名乗っていた女性は,私どもに会うことなく、当日の朝早く逃げるようにして退去した。

 入ってから、私は名簿やら電話帳で、かつて、個人がおつきあいしていた人たち特に秘書とかお手伝い方にお目に掛かって,お話を伺った。

 生前、東亞子がどんなことを話しているのを知りたかった。
 皆さん、共通していたことは
 1、 いつも寂しそうでした。
 2, 私の青春なかった。
 3, 私の人生なかった。
                   でした。

 ・・・いつも寂しそうでした。・・・というのはさもあろうと思う。私だって、自分の家庭を持つまで、自分の居場所がなかった。でも、私は自分の家庭を持つことができた。
 東亞子は戸籍上は一度,結婚したことになっているが、戸籍の上だけのことでした。
 ラッキーは、私どもが上京したときに江戸川の家に越してきた。江戸川と言えば,すぐ近くに小学校入学寸前の東亞子を借金の形に自称「しんせつなおばさん」に手渡した場所だ。
 その後、私もそのしんせつな家によく行った。
 
 私どもが九州から上京してきたときは、東亞子は美人占い師として、派手に活躍していた。
 ところが、ラッキーは明治鉱業を辞めて,1年ほどの無職だった。当然,生活が成り立たない。ちょうちんはこのしんせつな親分に依頼して、ラッキーを小岩駅頭で、懲らしめて貰った。

 ラッキーは無職の失業者である。金を持参しろと言われれば、行くところは,東亞子のところしかない。
 
 ラッキーは、又、東亞子を金にしようと考えたのだろう。その頃、東亞子は週刊誌などで二枚目俳優との間を騒がれていた。
 このことを知る人は「あの俳優に夢中だったので、みんなで邪魔した」と言ってはばからない。
 そして、ラッキーたちは高利貸しの息子に東亞子との結婚を持ちかけて金を引き出した。
 でも、実際には結婚式を派手に挙げて、戸籍を入籍しただけで、別れた。一緒に生活したことはない。
 結婚って、なんなのだろうか???

 怒った金貸しの息子は、突然、やってきてラッキーの第一妻を階段から突き飛ばしたそうだ。

 こんな青春だったのだ。

 
 

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