自分の身分を知ってからの私は、ラッキーや第一妻の所業を詳らかにしようと思って、北は北海道、南は福岡、時間を作って、知り合いや東亞子の遺品から出た手がかりを元に歩いた。
それと、知らなかったとはいえ、私は彼らの渦中にいたのだった。
まず、私は飯塚のごんぞう小屋に監禁されていたことは、早くから、わかっていた。
でも、東亞子は私より5歳年上なのだ。私は3歳にもならないから、自分自身がさらわれたことさえわからなかった。
しかし、東亞子は小学校に入る寸前であった。長崎で、祖母や母と一緒で、しかも戸畑の祖父の家に女中さんに連れられて、祖父母の家に通っていたそうだ。同い年の従姉妹と遊んでいたそうだ。
祖父母の家で、遊んでいた東亞子をラッキーの第一妻が買い物姿で現れて、「一緒に買い物をしよう」と、誘いそのまま、誘拐した。これは、東亞子の死後、物心ついてから初めて会った私に母が、東亞子の言葉として私の教えてくれた。
小学校6年の夏まで、過ごした明治鉱業の社宅近くで、明治鉱業の社員の方にお話を聞くことができた。
東亞子と同じ年頃のその方達は、東亞子が換金されていた様子を知っていた。
私が住んでいた明治鉱業の社宅とは違った場所だった。小倉に行く前の場所とはいえ、社宅で大胆にも東亞子を監禁していた。
道路より高い場所にあったその社宅で時々女の子の姿を見かけたが、外に出てくることはなかった。
小学校にはいる直前の東亞子は、自分の親たちのことを知っていたし、自分がさらわれたと言うことも知っていた。
東亞子を受け取った方が一番心配したことは、さらった子であるのがばれることだった。
まず。東亞子をラッキーや第一妻のことを「お父さん」「お母さん」と呼ばせることだった。
鷹匠が雛を得て、自分を親だと思い込ませるには、極限まで、餌をやらないで、死ぬ寸前になってやると雛の鷹は、鷹匠のことを親だと思い込むのだそうだ。
その方法を東亞子にした。
さらった東亞子に食べ物をやらないでいて、・・・
飢えた東亞子の前に食べ物を出し、これをやるから、ラッキーを「お父さんと呼べ」「第一妻をお母さんと呼べ」と迫った。
拒否した東亞子の目の前で、彼らが食べてしまった。
こんなことが何度か繰り返された後、東亞子はやむなくラッキーを「おとうさん」第一妻を「おかあさん」と呼んだのだろう。
幼児ともいえた東亞子が自分の魂を・・・・・・・・無念だったろう。
後年、成城の100坪超えの豪邸で、食べ物は、政財界の有力者から送られた高価な高級食品を少しだけ、かじって「捨ててしまいなさい」といって、捨てさせた。
まわりにいた方が「そんなもったいないことをしないで、皆さんに、少しずつ、小分けにして、持って帰っていただいた方がよろしいでしょう」と、忠告しても「捨ててしまいなさい」一点張りだったそうです。
このことを聞いた私は、魂を売った東亞子の苦しみがわかっていたたまれなかったです。
ちょうちんは私が我が子を連れて江戸川の家に行くと、すぐに帰りたがる私の子に対して「餌をやる人には懐くわぁ!!」と言った。
妻はこの言葉への不快感を今でも言っている。
仮名にしろバカヤロウ
ものなのか人なのかわかりゃぁしねーだろうが