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Channel: 平成の巌窟王・福迫雷太氏はなぜ獄に
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祖父の死   ④

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 昭和21年2月、雪の剣山系から、九州に戻った祖父母と甥の栄一は戸畑の祖父母の家に到着した。
 山を出るときに履いてきた長靴は、雪がなくなったところから、履き替えていた。
 
 戸畑に到着した。
 誰もいないはずなのに、不審な男女数名が家の中に入り込んで生活している様子だった。
 しかし、不審なと言っても知らない人物はわずかで、後は、3人と顔見知りであった。特に、栄一の妻がいたのには、栄一はもとより、祖父母も驚いた。
 栄一の妻は、栄一が留守の間に、押しかけてきて、居座ってしまった女性だった。終戦前に朝鮮に渡り、いわゆる売春をしていたようだった。
 その話はちょうちんから、よく聞かされた。ちょうちんの姉も行っていて、「朝鮮は儲かるから、一緒にやらないか・・・」と、手紙で書き送ってきたと、よく話していた。
 
 不審な男女の仲には、もちろんラッキーやちょうちんもいた。
 
 祖父母、栄一の3人が帰宅したときは、そこにいた男女は出て行った。
 
 数日して、不安を抱きながら、栄一は四国に帰った。
 
 栄一が両人を見たのはこれが最後であった。
 
 
 冬の寒い夜だった。外は雨で、男達の声がした。
 外の騒ぎで、私は薄ぼんやりと、何が起こったかはわからなかったが、・・・これが私の記憶の始まりです。
 
 この時、私が閉じ込められていたゴンゾウ小屋に祖母を押し込んだ。男達が大声で話す様子、雨の音、「トタンにしろ」という叫び声、
 
 この時からいくらもしないで、戸籍上は私の叔父になっている秀夫が、ここに尋ねてくるのであった。
 その時の様子を「びっくりしたなぁ~、もう、・・・戸畑の家にはな~んにもない。誰もいない。洋ちゃんは痩せて、歩けない」と、
 
 つまり、祖父は死に、祖母は、さらわれ、私が押し込められているゴンゾウ小屋に連れてこられたのであった。

祖父母のこと・・・祖父の死と東亞子の死の共通性

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 母に会ったときに、最初に聞かれたのは「成城の自宅はどんなようすでしたか?」ということです。
 
 続いて「なんにもなかったでしょう?」と、まるで、そういう事例を知っているかのようでした。
 
 昭和21年2月、祖父が戸畑の自宅に帰着して、送っていった甥の栄一が四国に帰って、すぐ、祖父が消えて、祖母が私が監禁されていた飯塚のゴンゾウ小屋に押し込められたのは、そのすぐ後だった。
 
 そして、秀夫が台湾から帰還して、戸畑の家に行ったときのことを回想して、
・・・びっくりしたなぁ~、もう、 なーんにもなかった・・・と、
 
 東亞子の殺害現場であるハワイ・ホノルルのコンドミニアムでの、写真を見ると、ものらしいものはなんにもなく、クローゼットに遺体が放り込まれていたにも拘わらず、
衣類がなんにもなかった。
 クローゼットに東亞子の衣類があったはずなのに皆無ということだった。
 
 祖父の死と東亞子の死には共通するものがあることを漠然と感じた。
 
 祖父のことをラッキーは貧乏であったと口癖のように言っていた。
 おまけに、私が結婚したときに若かった妻に問わず語りに祖父母のことを話していた。私も隣で聞いていたら・・・
 
 ラッキーは得意になって話していた。
「じいさんは醜男であったが、ばあさんは、美人であった。・・・それに貧乏であった」と、したり顔で話している。
 私にはいつも祖父が貧乏だったと言っていたから、何の不思議もなかったが、妻はその頃若い女性だったから、
 後で、私にこう言う。
 「なんだか、変よね。おばあちゃんは超美人だったっていうのに、おじいちゃんは醜男で貧乏なんでしょう?今はね、家付き、カー付き、ばばあ抜きっていうのよ。100%に近い女性はそんな男のところには、行かないよ」と、
 
 ちょうちんが亡くなって、若い頃の写真が出てきた。
 京都で撮影されたようで、昭和12年と裏に書いてあった。
 その写真は鞍替えの時のらしく、多くの若い女性と引率する人たちが写っていた。私はそれを持って、四国の祖父を知っている人を訪ねた。
 
 「こんなに抱えとったぁ~!!」
 「これは源さんですか?」と、私は自分に似た男を指すと
 「源叔父は、よう、あんたに似とるわぁ~」と、祖父の年代に近くなっていた私に言った。
 
 ラッキーがいつも貧乏だと言っていた祖父は昭和12年、ベンツに乗っていた。
 
 このブログに写真を載せている私が醜男だと言えばそうかもしれないが、昭和12年にベンツに乗っていた男が貧乏とは・・・よく言えた!!
 
 
 

時を超えて

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 祖父の死から49年目に藤田小女姫こと藤田東亞子はホノルルの自宅コンドミニアムで、殺害された。
 祖父の場合は戦後の混乱期で事件にもならないで、うやむやにされた。
 でも、祖父の死と東亞子の死が共通点があると私は感じています。
 
 東亞子の事件は、ホノルル時間2月23日頃、祖父の死も2月20日前後、祖父も東亞子も死亡時刻さえ正確にはわかっておりません。
 
 自宅での略奪は共通しています。
 
 東亞子が東京からハワイに行った直後、殺害された。祖父の場合も四国・徳島から戸畑の自宅に帰宅して、わずかでのことだった。
 
 東亞子の遺体も祖父の遺体も遺族は見なかった。
 
 遺骨は両方とも持ち去られて、捨てられたようだ。
 
 東亞子の遺体の状況は、ハワイでの警察当局の遺体の写真で、殺害の状況を想像した。これはさるマスコミ関係者が法医学者に所見を頂いたので、その通りだとおもっています。
 ところが祖父の死亡の状況は犯人のみが知るという状態です。東亞子の写真の状態から類推するしかありません。
 
 この作業をこれからしてみます。

この書庫の題名について

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 私は、戸籍上、ラッキーとちょうちんの長男として、ほとんど、赤の他人の子として育ってきた。
 
 ラッキーを筆頭者として、長女・東亞子(母親はラッキーの一番妻となっている)次が私、次に二女(ラッキーにもちょうちんにも無関係)、次が三女(これはラッキーの子ではないが、ちょうちんの子である)そして、四女(母親を違えてラッキーの子として記載されているが、全く、違うところから連れてきた)
 
 私と一緒に生活したのは、私、二女、三女である。
 
 ここで、血縁があるのはちょうちんは三女の母親である。そして、二女と私は無関係です。
 しかし、三女はラッキーの子ではないが、ラッキーとは近い血縁関係です。
 
 この書庫では、よく、血縁のない親子関係で、親となっていた方が、「我が子のように育てた」と、言われるが、はたして、そういうことがあるのか?
 
 私が成長した過程では親子関係は先に書いたようにいろいろあるので、解ると思う。
 はたして、人は自分の子と他人の子を同じように扱えるのでしょうか?
 
 私はこの書庫名は彼らの偽善を示そうと・・・

写真

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 藤田小女姫の最後の写真はハワイ警察が撮影した遺体の写真です。
 
 これをここにアップするわけには行かないので、言葉で書きます。
 
 まず、顔は猿ぐつわを咬まされていました。衣類を細くして、ねじったようで紐状になっていました。
 首には絞められたような跡がありました。
 
 背中には釘状の物で、引っかかれたように、ジグザグに傷がついていました。
 足は焼かれたのか、黒ずんでいました。手の指先は傷ついていました。
 
 以上です。さる出版社で、専門家に見ていただきました。それによると、
 ・・・多数の加害者が多数の凶器で死に至らしめた。・・・とのことでした。
 
 私もそう思います。
 多数の犯人が多数の凶器で、いたぶって、死に至らしめたのでしょう。
 
 

『吾郎』

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 私が東亞子の養子がいると知ったのは、亡くなった吾郎が10歳か11歳の頃だった。週刊誌に出ていた。
 無責任にも吾郎は政商と言われた某財界人と東亞子の子ではないかと予想していた。このことで、東亞子は大変な迷惑を被った。この週刊誌のことについてこの財界人は東亞子を詰問した。
 東亞子とて、吾郎が養子に入ったことすら知らなかったと思う。というのは愛知県の田舎町で生まれたことになっている吾郎を知るよしもなかっただろう。
 
 私は事件後、この吾郎が生まれた場所である愛知県の田舎町を訪ねて、吾郎が生まれた様子を聞きに行った。
 「20年ほど前、△△さん方で、男の子が生まれたでしょうか?」
 「△△さんはのところの息子さんは、もう、40歳すぎで、一人しかいませんよ。それに△△さんは、もう、おばあさんですよ。若い男の子がいるわけはないでしょう」
 と、一様に皆さんがいわれる。
 
 
 それと、週刊誌に出ていたときに丁度我が家にやってきた私の戸籍上の父?ラッキーに問いただした。
 「この間、週刊誌に東亞子のところに養子がいるって、あれなんなんだ?」
「・・・・   ・・・・   ・・・ ・・・」
 ラッキーはうつむいてただ黙っている。
 私もかなりしつこく聞いたが、黙っている。
 
 長い間、黙っていて、仕舞いにはうつむいて泣きそうになる。
 
 
 事件の後、東亞子の周りには、「吾郎」と言う名の男の子で、亡くなった吾郎と同じ年齢で、同じ学校に行っていたのが、もう、一人いると知った。
 
 

【吾郎】

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 石炭産業が終わりの頃、東亞子は占い師「藤田小乙姫」として、世に出ていた。東京・大井町では門前列をなすようになったそうです。
 
 明治鉱業で、保養所と会社の連絡係みたいなことをやっていたラッキーは、藤田小乙姫一行が北九州を訪れたときに、鉱業所で、会社の拡声器で、選別所などの現場に放送したようだった。
 
 そのときから、何日もしないで、突然、会社にも自宅の社宅(みんなはそう言っていたが、世間では炭住と呼んでいた)からも姿を消した。
 小学生だった私などはほっとしていたが、社宅に家族を置きっ放しにしたことは大変なことだったようだ。
 
 それから、一年以上して、突然迎えにきた。
その間の事情は、後で知ったことだが、金がなくなったラッキーは東京支社に出かけて、月給をもらいに行ったようだ。それで、馘になって、社宅から家族を引き上げるように言われた。
 
 最近では子どもや家族を捨てて、蒸発するようなのが、多々、いるようだが、昭和30年代初めにもいた。
 
 このあと、東京へ家族を連れて行くのだが、・・・
 このことによって、東亞子が後に「私の人生なかった。私の青春なかった」と、言わしめるようなことがラッキーによって起こされた。
 私の青春とは、おそらく、本名・吾郎という名の東亞子の思い人だったのだろう・・・

【吾郎】へ

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 こうやって上京したが、小学生だった私は学校へは行かなかった。
 
 ラッキーは後に三番目の妻になる女性と一緒にいて、家族となっている、ちょうちん、私、二女、三女の住んでいる家には帰ってこなかった。
 
 学齢に達していたのは私と二女(この子は年齢が不詳であるが戸籍上)であるが、学校には行っていないので、いつも、暇だった。
 
 ある日、ちょうちんと第三妻とは別のラッキーの女と一緒にみんなで、第三妻の留守宅に入り込んだ。もちろん、無断です。いわゆる不法侵入です。その時に第三妻の家具類などを見た。そして、不法侵入にも拘わらず、みんなで、お茶を入れて飲んだ。
 
 それから、何ヶ月か経った頃、私たちが住んでいた家に第三妻の家で見た家具や衣類、食器など生活用具が積み上げられていた。
 
 そして、その日、その夜、
 ラッキーはちょうちんを詰問しようと自宅への帰途、突然、何者かに襲撃された。真夜中だったので、子ども達は寝ていたのに、すぐに、みんな知っていた。
「ラッキーさん、散々だったよ。殴られて、眼鏡は吹っ飛んで、ネクタイで締められ、ワイシャツはぼろぼろにされたみたい」と、言っていた。
 後にラッキーは「人間、靴で頭を踏んづけられると、参ってしまうんだよ」と、
 
 つまり、ちょうちんはさる人に依頼して、第三妻の家財道具を奪い、怒って、やってくるラッキーを途中で待ち伏せて、襲撃してもらった。
 もちろん、これを無料でやってくれる人がいるわけはなかった。
 
 このとき、ラッキーは多額の金を要求されて、解放された。
 しかし、文無しのラッキーに金の目途つくわけはないが、なんとかしなければ許されないのだ。
 
 こうなると、藤田小乙姫(最初は乙でした)で、なんとかするしかなかったし、襲撃した人物もそのつもりだったろう。
 
 こうして、東亞子にとって「私の人生なかった。私の青春なかった」というような事態になる。
 
 
 
 

続【吾郎】へ

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 ラッキーが、約束させられた金は、当時、雨漏りしていた家を立て替えるのと、生活費等であった。
 
 文無しのラッキーが頼るところと言えば東亞子の周りに徘徊していた第一妻である。第一妻は大井町の東亞子の事務所にいたが、人前には出てこなかった。
 事件後、そのことを聞いた。、
 おそらく、東亞子とはラッキーと同じように白人みたいで似ても似つかない容姿から出て行くことは見られてはまずいと思ったからだろう。大井町の事務所ではラッキーと第一妻とこの話を教えてくれて新聞記者だけで、一室にいた。
 
 第一妻とラッキーは東亞子を二人の知り合いの金貸しの息子と結婚させて、そこから、金を工面するというのだった。
 
 ところが、東亞子は、当時、 二枚目俳優に思いを寄せていた。マスコミにも話題を提供していた。
 しかし、ラッキーと第一妻はあきらめなかった。
 
 その二枚目俳優の本名である【吾郎】さん、【吾郎】さんと、夢中であった。そこで、ラッキー達は、東亞子と二枚目俳優の仲をを裂くことにして、色々手立てを企てた。
 
 このことが、「私の人生なかった。私のッ青春なかった」と言い続けたと思う。
 
 これは二人はもちろん金貸しの息子をも傷つけた。決して、許されることではない。

【吾郎】へ・・・

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 東亞子は元々もいわゆる「面くい」であった。そして、恋多き女と言われていた。ラッキーが襲撃されて金の工面をするために金貸しの息子徒党亜子を結婚させて、金貸しの息子から金を貪ろうとした。
 この金貸しとラッキーの第一妻は知り合いであったし、ラッキーももちろん知っていた。
 しかしその頃、、面食いのと雨亜子は本名【吾郎】の二枚目俳優に夢中だった。東亞子がさらわれてから、秋田、群馬などにつれていかれた過程で、東亞子に好意を寄せるものが多々いた。彼らは占いをしていた東亞子の周りに蠢いていた。
 二枚目俳優には、嫌がらせをして利していた。
 
 そんなところに金貸しの息子をと言うのであった。
 
 東亞子は拒絶した。
 
 ラッキーはなんとしても、金貸しの息子から金をせしめねばならなかった。
 
 金貸しの息子をその気にさせておいて、東亞子には「今まで通りで良いから・・・」と言っておいた。
 
 つまり、戸籍上だけでの結婚であった。
 
 結婚って、籍を入れることが結婚なのか?、一緒に生活することが結婚なのか?
 
 実態が亡い結婚だと気づいた金貸しの息子は、突然、東亞子に事務所にやってきて、ラッキーの第一妻を階段から突き落とした。
 
 後に、この金貸しの息子はさる雑誌に第一妻の金の汚さについて、
・・・・あの女は『百万円が百万円の女だから・・・』と書いている。
 
 その金は、ラッキーが自分を襲撃した親分に届けた。
 その時の様子を私は東亞子亡き後、聞いた。
 「ここの上がり框で、平伏して顔を上げないんだよ。入ってきて、帰るまで、ずーっとだよ」
 「何しに来たんですか?」
 「金を持ってきた」
 「どのくらいですか」
 「いくらだか、忘れた」・・・・・と、
 
 こうして、若い人たち愚弄した。後に金貸しはつぶれた。
 そして、二枚目俳優は自殺との報道があるが・・・
 
 東亞子は『吾郎さん、吾郎さん・・・私の人生なかった。私の青春なかった』と、

【吾郎】へ・・・吾郎なら良いんだろう

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 「吾郎さん吾郎さん」と、いつまでも言う東亞子を見て、ラッキーはならば【吾郎】をと考えた。
 
 金貸しの息子の家業が倒産して、これ幸いと離婚手続きをした。金貸しの息子も再婚した。
 二枚目俳優も女優だった女性と結婚した。
 
 
 月日は流れ、東亞子は日本に豪華マンション、ハワイでは、支援者があって、高級コンドミニアムなど資産を持つようになった。
 
 しかし、相変わらず、「私の人生なかった。私の青春なかった」と言っていたようだ。この頃、、私も、所帯を持った。東亞子は独身で子なしということであった。
 ラッキーは大きな財産を持つ東亞子に目を付けないわけがなかった。それでなくても「馬鹿親父」と、生み散らした子ども達言われていた。
 
 私はラッキーとは、かなり接触が多かったので、ラッキーの口調まで分かる。
「コトトメの財産はわしのもののようなものだ」と言って、自分の戸籍に載せなかったラッキーの子達に・・・
 
 ラッキーはいつも金に困っていたし、私のところに無心にも来たし、アメリカに出稼ぎに行った私のところにも来たくらいだったから、東亞子のところにはどのくらい行ったのか・・・
 ある日こんなことも言っていた。「年末に行くと、何しに来たの?」と言って、けんもほろろに追い返される。
 どうやって金を取ろうかラッキーは、考えたのは【吾郎】であった。

祖母(母方の)

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 終戦後、私が小倉で祖母と一緒にいたのは、昭和24年の寒い頃だ。
 
 小学校に入る一年前である。いつの間にか、明治鉱業・小倉の社宅にいた。この祖母は肉親の温もりを私に与えて、自分は餓死して果てた。
 
 東亞子がハワイでの惨殺された後、祖父母の里に出かけて、親戚など、この二人と関係者を知る人々を訪ね歩いて、お話を伺った。
 
 二人の故郷は、徳島県・剣山系の山奥だった。
 
 祖父は東山、祖母は西山で、各々、そこで、名主のようだった。特に祖母の方は祖母の家の名字とその村落の名前が同じである。
 
 その昔、平家の落人が住み着いたという言い伝えがある。祖父と祖母の家のは徒歩で40分ほど離れていた。
 ところが両家は仲が良いかというとそうではなくて、敵対していたようだ。
 祖父の親戚の物は「なんで、「○○叔父は△△△(祖母の家の名字)のもの一緒になったのか・・・」と、不思議がっていた。
 
 祖母は美人であったとはラッキーもよく言っていた。そして、この里でも、みなさん、「きれいな人やったわ!」と、おっしゃる。
 「鄙には稀な」という言葉があるが、この鄙は平家の女官が落ち延びてきて、古くから美人の里で、「秋田美人」などと言うようにここの地名を付けた美人の呼称があるそうです。
 
 そんなわけで、祖父と祖母はみんなに不思議がられるのに一緒になり、九州に向かった。
 
 

田舎者

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 祖父母が結婚して』、阿波で、長男が生まれた。」二年後。長女が生まれた。これが私の母である。
 
 母が生まれてから、少しして、祖父母は北九州の若松に行った。粗祖父が明治維新後、官営八幡英哲所の創業に参加していたので、八幡製鉄所専用のクラブ(実態は遊郭です)を作って、祖父とその姉が経営に当たることになった。
 
 祖母の二番目の兄は博多で川筋者の親分をしていた。
 阿波の山また山の田舎から出てきた祖母は文字通り田舎者であったのだろう。一人で出歩いたどうか分かりませんが、・・・
 知恵遅れの白人男に襲われた。
 
 襲った男がラッキーの父です。
 
 私は日本の戸籍制度がでたらめであるのはラッキーの父は子の白人男であるにも拘わらず、祖父の次男になってしまうことだ。
 
 ラッキーは誰からも歓迎されない子であった。

望まれない子

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 祖母が襲われて、生まれた子がラッキーだったが、その襲った男は、私が子どもの頃、何度も会っている。というのは、ちょうちんの父親だからです。でも、ちょぷちんとブン(ラッキーの実の父)は、血縁関係はない。というのは、ブンは人さらいを生業にしていたから、ちょうちんも被害者であったろう。
 ブンはラッキーと同じように3回結婚している。目星を付けた成人女子をさらってきたときには自分の戸籍に、結婚したことにして、・・・つまり、時つんノ妻を売ると言うことをしていた。
 そんなわけで、子どもをさらってきたときは、自分の子として、入籍しする。そうして、ある年月が経つと売る。

 
  ブンは少し知恵遅れであった。毎日、どこかへ出かけて行っていた。そして、隻眼であった。誰かに目をつかれたのだろう。

 祖母は生まれた子を一目で祖父の子でないと判ったのだろう。ブンのところでラッキーは育った。
 祖母の兄はいわゆる川筋者に総帥であったから、この男も身元が分かったのだろう。
 しかし、親分の妹を襲って、ブンが無事であったのは、なにか祖母の兄である親分と関係があったのだろう。この訳は項を改めて書きます。

 いずれにしてもラッキーは祖母と一緒に成長しなかった。長じて、戸籍上の父である祖父の所に行ったときのことを私に話しているので検証してみます。

望まれない子・・・2

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 ラッキーは、子どもの頃、私の祖父母の家で、過ごさなかった。祖母を襲ったブンノところで育った。
 
 フンは3人目の妻がいたので、遠賀川沿いのゴンゾウ小屋にいた。ゴンゾウ小屋からブンの家に来て、川筋もの達は食事をした。その時の様子をラッキーはよく話していた。しゃもじが何本もあって、みんなで、お手盛りで食べるのだが、要領の悪い物は殆ど食べられなかったそうだ。
 ブンの妻は、食事をおいしくすると食料が減るので出来るだけまずい物を作るように心がけたそうだ。
 こんなことを私が知っているのは、ちょうちんの実家であるからでしょうが、ラッキーもよく話していた。

 大きくなったラッキーは戸籍上の父母である、私の曽父母の所にきた。いつもいるというわけではなかったようだが、私の祖母つまり、ラッキーの母のことをよく話していた。

「ばあさんは、わしが寝転んでいると、蹴るのだよ」と、

 まぁ、その時はあまり年寄りというわけではなかったでしょうが、女性が16,7才の男の子を蹴るというのは、あまり、ないと思う。
 でも、後で、聞いたら、祖母は、大柄で体力抜群の女性であったらしいので、ラッキーはかなりの衝撃を受けてようだ。だから、何度も私に話して聞かせたのだろう。

 このことを我が家の女性達に聞かせたら、・・・・
「当たり前でしょう。お父さんはその『いいじゃぁねぇか・・・』の人に似ていたからですよ。おばあちゃん、怖かったでしょう・・・でも、お父さんも責任もないのに蹴られるんだよね。おばあちゃんにしてみれば、お父さんの顔を見れば無性に腹が立つんだよね」って

 だから、ラッキーは祖父に似たかったのかもしれない。

 

ごんぞう小屋

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 私が祖母と一緒にのごんぞう小屋に閉じ込められていたというのは、何度か書いたのですが、「ごんぞう」という言葉もあまり使われなくなり、ごんぞう小屋自体もなくなってしまいました。

 10年ほど前、若松に観光用の「ごんぞう小屋」があったのは見てきました。その写真が最近手に入りました。さる雑誌に掲載されたものですが、外から見たのと内部とはかなり違いますが、写真に撮って、後ほど掲載しますので、よろしく・・・

ごんぞう小屋・・・2

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ごんぞう小屋の写真を雑誌で見つけました。
イメージ 1
『サライ』2010年11月号より

 これは観光用の「ごんぞう小屋」で立派です。

 私が祖父が不慮の死を遂げた後、祖母と一緒にの「ごんぞう小屋」に監禁されていて、外が雨のような日の記憶が私自身の記憶の始まりです。
 遠賀川を使って石炭を若松港に運んでいたそうです。私が監禁されていたのはですから、遠賀川も上流になります。

 中の構造は、床がありません。このごんぞう小屋も床はありませんでした。最近園にある物置でさえ床がありますね。写真の『ごんぞう小屋』は板で出来ておりましたが、私の閉じ込められていたのは・・・
 ある雨の夜でした。外で男達が「馬糞紙では駄目だ。トタンにしろ」と叫んでいました。
 床がなかったというのは後から知ったのです。自分がさらわれ監禁されたのがこのような場所だったというのを発見した叔父(実は兄)から聞いたときは衝撃でした。仮性餓死状態だったそうです。
 
 自分ではどのくらいこのごんぞう小屋に閉じ込められていたのかわかりません。

 「ごんぞう小屋」というのはこの写真では観光用ですから、一棟ですが、畳6畳もないようなのが遠賀川沿いには無数に並んでいました。
 ちょうちんはこの小さい小屋のことを抱えて持ち上げる真似をして「抱えられるくらい小さい」と言って笑っていました。

 発見した叔父が、私は近いうちに駄目になるから、祖母だけを背負って、連れて行ったのです。
 何年か後に、ラッキーのとちょうちんがいる社宅に連れてこられて、祖母は餓死をしました。

自殺・・・ラッキーの場合

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 争いと虚偽の中で、子ども時代を過ごしてきて、高校になると押し入れに潜り込んで学校に行かなかった私ですが、自殺をしようとは思わなかった。

 75才になったラッキーはいろいろ具合が悪いと言って、病院巡りをしていた。その頃、病院では過剰医療が問題となっていた。
 ラッキーも病院にサロンのように足繁く通っていた。病名もよく分からないけれど、入院することになった。ラッキーの病気好きにはみんなうんざりしていたので、めんどくさいと思って、放っておいた。
 一番最後まで、一緒にいた四女が、「もう、直ぐ駄目になるから、見舞いに来てくれ」と、何度も電話してきた。
 最初の電話から半月以上たってから、見舞いに行った。

 行ってみると、体中に電線を付けて、口には大げさなわっぱを噛まされていた。腕には栄養補給の為に点滴をしていた。
 ところが、この大病人は至極元気であった。
 しかし、口にわっぱを噛まされて、話すことが出来なかった。3番目の妻に「口がふさがっているので話せなくて困るでしょう。取ってもらったら・・・」と言うと、、黙っている。
 3番目の妻がいないとき、四女に「あの口輪を取ってもらうように、先生にお願いしてみてよ」と、頼んでおいた。
 しきりに、ラッキーも取ってくれとジェスチャーしている。

 帰り際、私は祖母が餓死したときのj情景が思い出されて「お前、こんなところで、寝ていられる身分ではないだろうが・・・、り○さんになにをした!!」という思いを込めて思いっきり睨んだ。

 私の顔を見ていたラッキーはねじれるようにして、体は収縮した。側にいた四女は「何か、ショックを受けたみた~い」と、のんびりしていた。

 「じゃあ・・な!」と、帰り際ラッキーを見ると、まだ収縮していた。

 それから、1週間ほどして、二女から電話があった。
 「○○さん(四女)が、先生にあのわっぱをはずしれ呉れるようにお願いしたら、取ってくれたのよね。でも、ね!  文句を言うだけで、なにも食べないの・・・あの女人(3番妻)は、文句を言うからはめておいて欲しかったみたいよ」と、
 「なんで、食べないんだろうか?」と、聞くと
 「自殺しているみたいよ」と、
 自殺の進行形なんだろうか??

 わっぱが取れてから、1ヶ月後だった。
 
 

 

自殺・・・ちょうちんの場合   無理心中未遂

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 無理心中は自殺には入らないのでしょうか?
 ここのところが、ちょっと疑問だったのです。

 そもそも、心中と言うことは複数の人が合意で自殺することなのでしょうね。でも、無理心中というのもあります。

 ここのところを皆様のご意見をお伺いできればと思います。よろしくお願いします。

自殺・・・ちょうちんの場合  無理心中未遂

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 無理心中とは、「片方が自殺したくない場合は殺人ではないか」とのコメントを頂きました。
 私もそう思います。
 そして、今、はやりの自爆テロでもあると思います。片方が嫌がっているのに、それを強行して、自分の死ねば良いと言う考え方ははなはだ手前勝手と言わざるを得ません。


 冬の夜だった。
 小学生だった私は久しぶりに帰ってきたラッキーとちょうちんが争う声で目が覚めた。私どもは九州から東京に来てまもなくであった。ラッキーは第3番目の妻の所にいたが戸籍はちょうちんがそのままだった。
 つまり、子どもとして、長女が東亞子、長男が私、それに二女、続いて三女であった。東亞子以外は2番目妻(ちょうちん)が産んだことになっていた。
 しかし、二女がやってきたのは私が小学校に入ったときだった。つまり、ちょうちんがどこかからつれてきたと言うことだ。
 そして、続いて三女を産んだ。つまり、ちょうちんが産んだ子は三女だけと言うことになる。

 小学校の上級だった私はその時の争いの意味がよく分からなかったが、今はよくわかる。再現してみると、
 東京に来て、ちょうちんのことを聞いたラッキーは・・・
「三女は誰の子??」
「もちろん、ラッキーさん、あなたの子よ。似てるでしょう」
「そんなことないだろう。誰なんだ?チャリか?そうなんだろう!!えっ!」
「・・・     ・・・・ ・・・ でも、○○ちゃんはあなたに似てるでしょう」
「チャリは俺の子だ・・」
      ・・・
      ・・・

「ばか!!なにをする!!」すぐにバシッ! と、ラッキーがちょうちんを叩く音がした。

 バタバタとちょうちんが、慌ただしく表に出て行く音がした。私が起きていくとラッキーが
「今、三女の首を絞めた・・・」
 そして、顎をしゃくって、私に「行ってこい・・・」と、

 寒い冬の夜中であった。私は着替えをして後を追った。千葉街道を横切って江戸川の土手に行くと、ちょうちんがうなだれて歩いていた。

 長い間、うなだれて歩いていたちょうちんは突然、本当に突然だった。

   ”ようちゃん、一緒に死のう”と、

 ちょっとして、土手の上から、よっぱらいが、
   ・・よう、ねえちゃん・・・

 私はこの酔っ払いがいなければと、思い出します。冬の江戸川にj入水心中ってことになっていたでしょう・・・

 ちょうちんは抱き合い心中と言う言葉が好きだった。

 つまり、短い間に三女と私にちょうちんは殺人未遂をしたということだ。

 無理心中というのは自爆テロなんだろうか・・・
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