Quantcast
Channel: 平成の巌窟王・福迫雷太氏はなぜ獄に
Viewing all 202 articles
Browse latest View live

復員兵

$
0
0
 飯塚の権蔵小屋に祖母と一緒にいたのがどのくらいなのか、わかりません。
  私が知らない間に祖母はいなくなっていた。このことを兄(長い間叔父だと言われていたが、実は父違いの兄です)に聞きました。
 「台湾から、復員してくると、家は変なのが住んでいて、なーんにもなかった。あちこち聞いてあるいたよ。そしたら、あの飯塚に洋ちゃん、あんたと一緒にいた。洋ちゃんは痩せて、立てなかったよ」と、それ以上は私には言えなかった。

 つまり、私はもうだめであろうと思って、祖母だけを背負って、官舎に帰ったのだ。

 私はこのことを恨んではいない。というのは、別の叔父から、「洋ちゃんは痩せていて見られなかったよ。手足は線香のようで、今にも折れそうだった。よく生きていたよ」というのだから、衛生兵だった彼が、私が長くないであろうと思ったのも仕方ないのだ。
 



餓死

$
0
0
 遠賀川沿いの権蔵小屋から祖母がいなくなった時のことは覚えていない。その後、たいして、時間がたたなかったと思う。
 いつの間にか、ラッキーとちょうちんと祖母がいる社宅に移っていた。祖母を官舎に連れて行った兄が言うことには、寒い日に祖母を小倉の社宅に連れて行ったそうだ。とすると、その時私も権蔵小屋から連れてきたのだろう。

 いずれにしても、寒い日だった。
 私は祖母の布団の中で、一緒にアルバムをめくっていた。いろいろな人が映っていたが、誰だかはわからない。
 でも、長崎の眼鏡橋が映った写真があった。
 祖母は「足がよくなったら、ここへ連れて行ってやるからな…」と、言ったことだけは覚えている。そして、祖母は障子につかまり歩く練習をしていた。
 そうした日が何日続いたかは数の概念がない私にはわからないかった。歩く練習をしていた祖母は立つことさえできなくなった。飢えで体力がなくなったのだろう。このことを後にちょうちんは、言い訳がましく「働いているものが食べるのだとラッキーさんが言うので・・・」と言っていた。
 要するに、祖母を連れてきたのは配給が目当てであったのと、祖父の死や眼鏡橋のことなど、私に話すのを恐れたからだと思う。
 
 起きられなくなってから、何日たったのかわからないが寒い日が続いた。
 祖母が寝ている部屋には入らせなかった。
 
 何日かして、ラッキーは私を連れて、祖母の寝ている部屋に白い飯を盛った茶碗を持って「飯食うか」と差し出した。
 こと切れているのだから、食べるわけがない。でも、飯はあったのだ。

 私は東亜子が亡くなった後、眼鏡橋付近に行った。あの日から50年経っていた。
 近くには検番があった。母はなんという源氏名で出ていたのだろうかと考えながら歩いた。
 

遺棄

$
0
0
   祖母が餓死して、すぐだった。
 
 当時、車はあまり乗られていなくて、珍しかった。ラッキーは生涯車の運転はできなかった。
 それなのに、祖母の遺体を積むために車が来た。祖母の遺体は棺には入れられていなかった。車の中に膨らみがあって、そこに祖母の遺体があったようだ。
 そのあと、私は車中で寝てしまったようで、気が付いたら、また、社宅で、寝ていた。そして、祖母の遺体はなかった。

 そのことを忘れていたが、二女は成人してから、新興宗教に入っていて、祖父母(戸籍上の)の遺体をどこに葬ったか、執拗にちょうちんに糾していた。

 どうも、二女はラッキーとちょうちんの所業を聞いていたらしく、こう言っていた。
「あの人は散々、悪いことをして来たからね」と、
 そして、ちょうちんを東京から福岡まで連れて行って、祖父母の遺体を葬った場所に案内させようとしたが、でたらめの場所に連れて行ったそうだ。

醜男

$
0
0
 私がラッキーやちょうちんの子でないと知ったのは東亜子の死後であった。
   小さいころ、ラッキーのことを・・・この人は本当に父親なのか?・・・と疑問に思ったことはあった。しかし、戸籍には長男と書かれていたので、国家の作った戸籍だからと信用していた。
 しかし、東亜子が亡き後、事件現場となった東亜子のコンドミニアムで、2階下に住んでおられた元米国情報将校のサイディン・スッテッカー氏に、お目にかかった折、「私は「長い間、戸籍を信用していました。東亜子と私は母親が違うと思っていたので、物心ついてから、会ったことがありませんでした。ところが、最近、調べてみたら、両親同じで、親だと戸籍に書いてあるのは全く別人でした」と、申し上げた。
 「日本の戸籍?あれはでたらめです」と、こともなげに言われた。
 氏は米軍の情報将校で、日本のことを調査していた方である。私が依頼していた弁護士の方は「法務省の役人は、「 ”世界に冠たる日本の戸籍制度”と胸を張るけれど、このざまなんだね」という。
 法学部出のわが子は「先生はね。”戸籍はまず疑ってかかれ”というのよ」と、

 こうしてみると、私は間抜けであったのでしょう。

 でも、ラッキーもちょうちんも私との身分関係を隠すのに汲々としていた。

 思い起こせばいろいろありました。

 私は人の容姿について、あれこれ、言うのは好かなかった。でも、容姿は外に出た
DNAだとと思います。

 ラッキーもちょうちんもそのことに悩んでいたようだ。
 
 東京に出てきて、ラッキーは第三妻と一緒に生活していた。私が大学に入って、少しして、ラッキーのところに行ったら、第三妻は私に会うなり「似てないわね!」と言った。ラッキーは調子悪そうに俯いていた。
 こういうことがあっても私はラッキーとちょうちんが自分の両親でないとは気づかなかった。
 ラッキーとは人種が違うほど似ていないし、事実、違ううのでしょう。
 ちょうちんとはまさに「似ても似つかぬ」のですが、気が付きませんでした。
 わが子はちょうちんを見て、妻に「あの方、私のおばあちゃんではないよね」と、小学生のころから言っていたそうです。

 こんなこともありました。
 妻と一緒になったころ、ラッキーとは、ちょこちょこというか、よく、二人して会いました。
 ラッキーは妻のことを意識して、祖父母のことを話していました。
 殆どが、祖父母がいかに貧乏であったかということでした。でも、ちょうちんは祖父母が貧乏だったとはあまり言わなかった。
 ある日、妻に「お義母さんがね。おばあちゃんのことを”きれいなものが好きで、いろいろ集めていたんだってね。きれいなものって、宝飾品でしょう・・・」という。
 そういえば、ちょうちんは、祖母が着道楽できれいな着物などあるとすぐに買うと言っていたっけ・・・

 そんなある日、ラッキーと会って、話していると・・・
 「ばあさんは美人だったけれど、じいさんは醜男であったぁ~」と、

 家に帰ると、妻は・・・
 「なんか、変ねぇ~、だって、おじいちゃんは貧乏だったのでしょう!  なのによ。何で、美人のおばあちゃんがそんな醜男と結婚するのよ。ひょっとしたら、お義父さんは自分が醜男だから、おじいちゃんに似たって言いたいのかしら? 女の人は大概貧乏で醜男の人とは結婚したがらないのよ。9割以上はそうだと思う!」なんか変よね」と言う。
 そして、「あなたと似ていないので、お義父さんに会う時に、見比べて観察していたのよ」という。

 その時も、私は女性は容姿を気にするから言っているのだろうかと思っていた。

夫婦愛

$
0
0
 ラッキーらやちょうちんを両親だと思って成長した私は12歳からアルバイトをしてなにがしかの金銭を得ていた。
 高校生の頃は昼間は郵便配達、夜は町内会の夜警と、昼夜を分かたず働いていた。働いて得た金はちょうちんに渡すわけではなかったが、いつの間にかなくなっていた。高校はその頃流行りの工業高校であった。中学校の先生もラッキーが三番目の妻のところで生活していて、母子家庭だと思っていて、工業高校を勧めた。
 入学して、何日もしないで、いわゆる登校拒否で、押し入れに寝ていたが、アルバイトには出かけた。  その金をずーっと、ちょうちんは獲っていた。

 二度目の渡米で、ベトナム戦争が始まって、アメリカも教会ばかりが景気が良く、もう、これまでかと思い、帰国して所帯を持った。
 もちろん、家を借りて二人で生活した。子が出来て、自分の家を欲しくなり、家を建てた。そうすると、ちょうちんは私の稼ぎを取ることができなかった。

 ちょうちんは、私が東京の家を出てから金をせしめることができなかったが、「送金!送金!」と、三女と一緒にいつも言っていた。
 家内は「家賃がなくなっても、ローンができたのよ。送金なんてできるわけないじゃないの!それにあっちは隣のアパートから、家賃を取っているでしょう」と言って、相手にしなかった。
 
 そんな中、子供だけで、留守番をいていた日だった。突然ちょうちんが我が家にやってきた。私どもが帰宅するときには、急いで帰る時だった。
 娘が言うには「玄関のところに変な人がたっているなと思ったら、いきなり入り込んで、ダディちゃんの机や本棚をひっかきまわして、感じ悪いんだから・・・」と、
 ちょうちんは我が家に電話など掛けてきたことがなかったし、孫にあたる娘んぽ姿を見ると逃げだしていた。
 世間では、孫はかわいいというので、よく、連れて行っていた。

 ここに越してきて、いくらもしない頃から、犬を飼っていた。最初に犬が野犬狩りにあった後、コリー犬を番いで飼っていた。

 その頃、あまり東京には行っていなかったが、行くと、珍しくちょうちんが10キロ入りの米を土産として、くれた。

 家内がその米をといでいると、「この米に変なものが混じっているのよ。小さくて
分離できないわ・・・どうしよう?こんなにあるのよ。捨てるのはもったいないし・・・」

 悩んだ挙句、犬にやることにした。
 
 豚の骨と一緒に圧力なべで煮てやると、喜んで食べた。こうして何日かたった。

 朝の散歩で、雌犬のダイアナが突然倒れた。私が抱きあげて、家に連れて帰って、こと切れた。

 雄犬のチャールズが、呆けたようになってしまった。そして、食事をしなくなった。
  チャールズは、いつも、食事の時は自分の分を急いで食べて、ダイアナが食べているのを食べに行ったりしていた。
 そんなチャールズを近所の皆さんも知っていたし、知人のご存じだった。
 「あんなにダイアナちゃんからとって、食べていても、チャーちゃん、やっぱり、ダイアナちゃんがあんなことになってショックなんだね。食欲失せちゃったのよね。仲良かったのね」と、言ってくださった。

 それから、何日もしないで、チャーはダイアナの後を追った。

 ちょうちゅちんのところから、米をもらってきてから、一週間くらいだった。
 
 チャーが死んだ翌朝、ちゃおうちんが電話をかけてきた。
 「あら?居たの?」と、
 「うちの犬がみんな死んだ」
 「えっ…」と言って、受話器を置いた。

 ご近所の皆さんも、知り合いの方も「チャーちゃんはやさしかったのね。ダイアナちゃんがいなくなったら、寂しかったのね」と、お悔やみを言ってくださいました。


 


 

 




振動

$
0
0
 ラッキーが我が家に来たことは1度だけです。

 突然、電話があって、我が家の最寄りのJR駅まで、迎えに来てくれということだったので、時間に合わせて、駅まで出かけた。

 駅に行くと、まだ来ていないのか姿が見えなかった。電話を掛けようにもそのころは携帯電話がなかったので辺りを見回しているだけだった。
 ちょっとして、喫茶店から変な爺さんが出てきたと思ったら、ラッキーだった。道行く人たちが、ラッキーを見て笑っている。それもそうだろう。ラッキーの格好はちんどんやのようだったから・・・

 家に連れてきて、我が家の犬たちを見て「噛まない?咬まない?」と、言って怯えて居る。
 「犬は嫌いなんですか?」と聞くと、「なに、わしはがきのころ犬と一緒に寝ていたんだよ」という。そのときは、「そうか」と思っていたら、そうではなくて、ラッキーが子供のころ板権蔵小屋は子供のラッキーを若い衆が追い出して、犬小屋に追いやっていたようだった。
 こういうことも若松の権蔵小屋を見て、わかったのだから、調べなければいけないかったのだろう。この時も私はラッキーとちょうちんの子だと思っていた。

 家について、昼飯に、ラッキーは四国の生まれだと言っていたので、うどんにした。四国と言えばうどんだから・・・

 「おやじさん、四国ではうどんをよく食うのでしょう」と、言っても返事もせず、がつがつと歯を鳴らして、食べている。
 この時も私はラッキーが四国の生まれで、祖父の次男だと思っていた。

 ところが、ラッキーの3番目の妻は、「あの人、四国に行ったことがないわよ」という。
 事実、後に私が四国の祖父母の実家に行って、ラッキーのことを聞くと「えっ、男の子は竹さん一人でしょう」という、戸籍には子の祖父母の実家のいずれかも遠いところで入籍している。どうも別人が手続したようだった。
 ほんと、日本の戸籍って、かの米軍情報将校が言われる通りです。

 ラッキーはうどんを食べると帰りたいtぽ言い出した。その時も私は自分はラッキーの子だと思っていたので、「もう少しで、○子が帰ってくるから、会っていくといいよ」と、引き留めた。

 でも、さらに帰りたいというので、車で送っていくことにした。
 その時に、「最近の週刊誌で、ハワイから、なんだか、子供を連れてきたとか言っているけれど、あれはなんなの?」と言うと、びくっとして、靴を履きかけていたが、停まってしまった。
 
 車に乗り込んでからも、押し黙ったままだった。

 その時も私は孫に会いたかろうと、小学校の校門の前に車を止めて、校門から出てくる子供たちに「もう、帰りだよね」と言って、声をかけた。
 ラッキーは「早く行こうよ」と言っている。「少し待てば出てくるから○子に会って行けばいいよ。時間は十分あるのだから…」と、のんびりしていた。

 すると、私の運転席の椅子がガタガタと揺れ始まった。ラッキーが大きく震えているのだった。

 実は、前に電話をかけてきたときに、ピアノの音をラッキーが聞いて「上手だなぁ~、歌はヤラないんだろう?・・・」と言う。怯えは子のころからだったのか・・・
 ちょうちんも、鳴り物の発表会などには必ず招待したのだが、出番が来る寸前に帰ってしまっていた。二人とも、なんで、孫の晴れ姿を喜ばないどころか怯えて居たるのはと、不思議だった。

 人を攫った人間は、さらった当人の時はなんとか、頑張れるが孫になると耐え難いと言う識者がいる。

 そして、養子・吾郎のことが世間に知れた時だった。
 

 

暴力

$
0
0
 ラッキーやちょうちんが私の子に怯えるのは、「瓜の蔓に、なすびはならぬ」の諺のように、自分たちの

したことが悪いと承知していて、これを隠そうとして、さらに悪さを重ねるということでしょうが、これを

隠すために、自分たちの孫を東亜子の子として、入籍することを考えた。

 と言っても、昔と違って、東亜子の子として、入籍するには出生証明書がいる。ならば、養子として、入

籍してしまえば、世間の芽だけごまかせると思ったのだろう。

 もちろん、東亜子の遺産目当ても目的であっただろう。

 しかしながら、ラッキーには「数えきれないほど子供がいる」とちょうちんがいつも言っているように、

沢山の子供の中から、選ぶということは子供たちの間で争いがおこるということだった。

 この問題は後で、記述する。

 
 
 吾郎が東亜子の前に現れたのは、ハワイであったそうだ。もちろん、戸籍は東亜子が知らない間に養子縁

組など、日本で、手続きが終わっていた。ラッキーの子である母親を秘匿しなければならなかった。

 その時の様子を、東亜子と一緒にハワイに行った方に詳しく聞いた。

 久しぶりにハワイの東亜子の別荘に行くと、ラッキーの第一妻と4,5歳くらいの吾郎がいた。そのときは

それだけであった。
 
 時がたって、変だと思ったのは,『吾郎』と言う名前は、東亜子が浮名流した二枚目俳優の本名である。

どういうことだろうと思って、その時は、東亜子と一緒に日本に帰ってきた。

 何か月かして、又、一緒にハワイの別荘に行った。

 その時だった。東亜子がラッキーの第一妻もろ共、吾郎を殴った。第一妻は吾郎をかばうために東亜子

に組み付いていくと東亜子は第一妻を突き飛ばすというよなことを目の当たりにした。

 学齢に達した吾郎が日本で、東亜子の家に来てからも、東亜子の暴力は止まらなかったそうです。

 そんな具合だったので、吾郎は東亜子の名古屋の別荘にいたそうです。事件の後、名古屋の別荘を引き

払うために、ここに出かけた私が近所の方に、いろいろ聞きまわった。「ここには吾郎さんがお母さんと

ご一緒でした」と、…・

 事件の後、東亜子の暴力を教えてくれた方は「いつも吾郎ちゃんが殴られていて、大きくなったら、今

度は吾郎ちゃんが先生を殴っていました。だから、最初にフジタコトトメ死亡のニュースを聞いたときに

は、吾郎ちゃんにやられたと思いましたが、ちょっとしたら、吾郎ちゃんも殺されていたと聞いたときど

うなったんだろうと思いました」と、

 
 私は、東亜子の辛さ、苦しさ、悔しさ、思うと・・・・

ファックス

$
0
0
 事件後、東亜子の自宅マンションには秘書と称する女性が入り込み、中からロックアウトの状態で、1年

近く過ぎた。

 その間、中の荷物などをその女性が持ち出していたそうだ。

 複雑極めた戸籍のために。多数の相続人がいた。つまり、ラッキーが3人の妻がいて、それぞれに子供た居

るので、多数の兄弟姉妹が出来てしまっていた。

 最初の妻はラッキーより、一回り年上で、その妻が最初に産んだ子はちょうちんと同じ年であった。私は

その第一妻の長女と会っていろいろ聞きたいと思って期待していた。東亜子が第一妻から生まれたのであれ

ば、当然、血縁であるから、どこか共通点がある筈であるが、私は最初から、そんなことは期待していな

かったのだった。第一妻の子供たちは、後、一人男性がいた。

 そして、第二妻のちょうちんの子となっている二女と三女がいるが、二人とも自分たちは、私や東亜子と

は何の関係もないことを早くから知っていたので、主に私が依頼した弁護士の呼びかけにも出てこなかっ

た。私は第一妻の長女はちょうちんと同い年と言うことで、いろいろ知っていると思っていたので、電話を

して会いたいと期待していると、伝えていたが、現れなかった。

 成城のマンションに入る当日に秘書と名乗る女性は誰にも会わずにいなくなっていた。

 しかし、第一妻の長男がやってきてくれたが、もちろん、人種が違うほど似ても似つかぬ容姿であっ

た。それは、別に驚きもしなかったが、幼かった彼らを捨てて、第一妻はラッキーのもとに走ったのに、

ラッキーのことを悪くは思っていないという。

 管財人同道で入った東亜子の自宅にはめぼしいのもはなにもなかったが、誰に送ったかわからなかった

が、ファックスで送られたであろう原稿があった。

 そには・・・一番寂しいのは吾郎ちゃんよ・・・と、あった。

 東亜子も私も肉親に恵まれなかったのだ。吾郎もまたそうなのだ。

進行形

$
0
0
 四女が結婚してからも、本郷のラッキー達の家によく来ていたようだった。四女が結婚してから、私はラッキーたちの家に行ったことがなかった。

 四女が私の子を「なんで、この子、私に似ているのよ」と言って、抱きしめて、離さなかった時から、私の家族を含めて、会うことを妨害した。

 ラッキーは、常々、四女に「自分が倒れても誰に連絡しては駄目だ」と、言っていた。そのころ、病院をサロンのようにして、病院巡りをしている老人がいた。ラッキーも、いろんな病院に行って、暇をつぶしていた。

 ある日、本当に倒れたのか、入院した。

 四女は家にあったラッキーの名簿から、かったっぱしから電話した。二女は何度も見舞いに行った。

 私は時間が出来たら、行ってみようと思っていたが、なかなか暇にならなかったので、福岡に電話した。後で知ったのだが、叔父だと思っていたのは、同腹の兄であった。

 二女が頻繁にラッキーを見舞った。ラッキーは「うるさい!、もう来るな!」と言っても、さらに見舞いに行った。「今までのこと謝らせなければ」と言っていた。

 少し、時間ができたので、見舞いに行くことにした。東京の病院では四女が付き添っていた。
 ラッキーは口にワッパをはめたりして大げさな機械を付けていたが、至極元気であった。

 最初は何のこともない話でしたが、だんだん話しているうちに、来し方のことが思い出されて、はっしと睨んだ。寒い二月の小倉で祖母が餓死をしたのを思い出した。

 四女が「なんか、ショックを受けたみた~い」と、のんびりした声で言った。
 ラッキーを見ると、顔は土気色で、両手を上げ、硬直している。

 しばらく、見ていると、だんだん、戻ってきたので、「じゃあ、帰るから…」と言って、四女に「先生に、あのわっぱを取ってもらって、何でも食べられるようにお願いしてみて」と、言って帰ってきた、

 3,4日してから、二女から電話があって「わっぱが取れて、何でも食べられるようになったのだけれど、食べないのよね。なんでだろう」と、
 それから、何日かして「まだ、食べないのよね。どうも自殺しているみたいよ」と、

 そうだった。二月の小倉は寒かった。

 このこと、ちょうちんは言い訳がましく、「だって、ラッキーさんが、”働くものが先に食うのだ”って言うから…」

続けざま

$
0
0
 ラッキーが入院したのは寒い季節であった。一週間後、見舞いに行って、口のワッパを外してもらって、なんでも食べられるようになったのだが、ラッキーは食べ物を一切口にしなかったそうだ。
 寒い季節が過ぎて、点滴で、凌いでいた。
 私は九州の方に連絡したら、叔父がやってきたそうだ。で、四女にその様子を聞くと、「どうしてだかわからないけれど、○○町の方に行くと言っていたよ」と言う。
 ラッキーと一緒に生活していた四女には、ラッキーの電話や訪ねてくる人の名前を聞いていた。その中にも○○町はなかった。
 
 何か、私や四女に隠し事をしているようだった。

 寒いころが過ぎて、春になり、梅雨入りの頃、ラッキーは死んだ。

 そのことを四女に聞いた東亜子の留守番電話にラッキーの死を伝えた。しかし、東亜子には伝わらなかったようだ。

 そして、夏が終わりの頃、四女が死んだ。

 四女が死んだことをちょうちんに伝えた時の反応は・・・・だった。
 
 


1, 2、 3、

$
0
0
 四女が亡くなった時にちょうちんに伝えたのは私だった。
 
 ラッキーの第一妻はラッキーより一回り上で、ちょうちんとは面識があるというよりはどこで一緒に生活したのか、一緒にいた時期があって、ちょうちんは第一妻の性格や癖などを私どもによく話していた。
 第一妻の長女はちょうちんとは同い年であった。それぞれラッキーを挟んで、一回りしたと一回り上であった。 
 
 つまり、第一妻と第二妻であるちょうちんとは24歳の差があった。
 戸籍上、ラッキーとの間には第一妻は東亜子だけである。第二妻のちょうちんは私が最初で、二番目が二女で、三番目が三女といた。
 そして、第三妻とラッキーとの間には四女だけであった。

 このことは東亜子の事件後知ったのだが、ラッキーと各々の妻たちの間の子は誰もいなかった。

 しかし、第二妻であるちょうちんの子である三女はラッキーと極めて近い血縁者とちょうちんの子であった。

 ところが、ちょうちんは他の二人と同じところで時期を違えて働いていたようだった。
 東京に来て、ラッキーが第三妻のところにいるをの知った時に、第一妻のことはいろいろ癖などを普通に話していたが、第三妻のことは「××子!!  ××子!…」と、歯ぎしりするように、叫ぶというか、震えるというか…

 こんな中、私だけが、第三妻と四女とのところに出かけていたので、四女の死をちょうちんに伝えた。

 その時のちょうちんの反応は別の驚きもせず「そう…」と。

スウィッチ・オン・・・1

$
0
0
 先の東京オリンピックの翌年、私は片道切符で渡米した。別に何の目的もなく、ただ、行ってみたかっ

たのだが、帰国の旅費がなかった。当時、飛行機による渡米は高くて、貧乏学生には手が出なかったし、旅

費を得るためにアルバイトに継ぐアルバイトでやっと横浜からサンフランシスコまで行くことができた。

 同級生2人と都合3人でサンフランシスコに着いたときは不安いっぱいであった。

 
 日系の方お世話で。ガーディナーをしながら、生活することができた。そんな私にちょうちんは金を送っ

てくれと、矢の催促であった。私はこの時もちょうちんのことを母親だと思っていたから、送った。

 幼いころから、飢えていたので、ボウディングのまずい飯も私だけは美味いと思っていたのです。友達た

ちは「こんなまずい飯食えるか!」と言って、チャイナタウンに出かけて行っていたが、私は何でもな

かった。

 酒もたばこもやらないので、多少の金を持つようになった。

 そんなところにラッキーまで、金の無心をしてきた。このとき、送金先として、さる銀行の福岡支店で

あった。東京に住んでいるはずなのに福岡支店とは?と、思ったが送った。

 これも東亜子が殺害されてから知ったのだが、ラッキーの戸籍に載らなかった子供たちが沢山いた。

 当時、アメリカでの1週間の稼ぎは日本での1か月の稼ぎであった。

 二人とも、こうして、私を攫った目的である金の巻き上げをしていた。おまけに、東亜子のところから

は、「洋三が留学するから、金をやらんか」と言って、東亜子からもとっていたようだった。

 私も彼らに12歳に始めた豆腐売りから、搾取され始めたのだった。東亜子はもちろん学校にも行かせら

れないで、米兵の客引きをさせられたり、占いをさせられたのだった。

 

スウィッチ・オン・ 帰宅

$
0
0
 2度目のロスでは、ガーディナーのボスになって、自分でお得意を獲得して、アシスタントを連れて、仕事

をした。

 しかし、アメリカ全体では、不景気であった。古くからの日系人などは「景気がいいのは教会だけだ」と

いうようになっていた。私どもと同じようにアメリカで仕事をしていた日本人も兵役に就くものが出てきた

りしていた。兵役に就くとアメリカ市民権がとれるので、私の知り合いでも何人か兵役についた。

 私はそんな気がなかった。

 そして、≫突然、帰国を決意した。

 帰国すると決めたら、できるだけ早くした方がよかったので、持っていた車や作業用の道具を売ったり、

得意を誰かに委譲しなければならなかった。

 それらすべてを終えるとすぐに帰国した。

 連絡なしであった。

 羽田に着いてそのまま江戸川の自宅に帰った。当時、ちょうちんと三女がいるだけであった。二女は結婚

して、夫の社宅に移っていた。

 自宅に着いたのは、昼過ぎであった。三女は学校は終わっていたが、仕事を持っていなかったし、ちょ

うちんは化粧品を売っていると言っていたが、その実、無職であったがいつも出かけていた。

 自宅に着くと、誰か中にいる様子であったが、ベルを押しても出てこない。

 隣家の方が、「あら、お兄ちゃん、帰ってきたの…○子ちゃん(二女の名前)中にいたわよ」という。

 仕方がないので、間をおいて、ベルを鳴らしていた。


 何度目かだった。中から、鍵を開ける様子があって、戸が開いた。

 二女が上がり框に、裸同然の姿で、「いつ帰ってきたの?」と・・・

 「2,30分前に…」言うと、困ったような顔をしている。続けて「おふくろは?」というと「旅行に行っ

ている」と、そんな話をしていると、二階から、見知らぬ若い男が洋服を着ながら出てきて、上がり框の

二人の横をすり抜けて出て行った。

 

 

スウィッチ・オン・・・子は祖先を写す

$
0
0
 帰国が秋も深まった11月頃であった。日本では仕事がなかったので、就職をしなけれた成らなかった。

 すぐに就職活動をして、不動産会社に決まった。12月から勤め始まった。仕事が決まったので。所帯を持

つことにした。で、翌年、正月休みに江戸川の家を出て、中野のアパートに引っ越した。引っ越しと言って

も彼女の車(普通の乗用車だった)で、2往復の荷物だった。

 最初は二人で勤めていた。結婚すれば、当然、子ができることを考えなければならなかった。そのために

は、住居を安定させなければならないので、公団住宅の抽選にいつも応募していた。

 私が勤めた不動産屋では、営業だったので、売り上げ成績で、給料も上がるし、役職にも登用されるシス

テムであった。いろいろな土地を売り歩くのですが、仕事には向いていたのか、12月に入って翌年4月に係長

になっていた。そんなときに公団住宅に当選した。会社に通勤することにはかなりの無理があった。

 少し、迷ったが、生まれてくる子のために、住居を安定させることにした。

 こうして、今の仕事に就いた。

 帰国してから、1年半後には、1児の父となった。

 
 生まれてきた子は、最初、誰に似ているかみんないろいろ言った。団地では、みなさん「お父さん似‥

ね!」と、言われた。

 そして、ちょうちんは誰とは言わなかったが、この乳児を見ることを嫌がった。私の叔父にあたる人が

「子供というのは、君や○子さんの父母や祖父母などのみんなの寄せ集めなんだよ。だから、みんなの合

作なんだよ」という。

 当然、ラッキーのロシア人様の顔かたちではなかったし、ちょうちんのようでもなかった。

 そして、二女は「お兄ちゃん、○子ちゃんが出来て、変わちゃったのね」という。

 私が子のために、仕事を変えても、住居を求めるのを言っているのだったが、当たり前だろうと思って

いた。

クラブ

$
0
0
 「戸畑生まれ」様のコメントにもありましたように私の祖父母がやっておりました倶楽部と称した遊

郭は、私どもの祖祖父が八幡製鉄所の創立に関係したからだと思います。

 明治維新は、土佐をはじめ四国は、いわゆる勝ち組であったと思います。

 祖祖父は、早くから、四国を出ていろいろ出かけていたようです。八幡製鉄所の創立に関係したようで

す。どういういきさつかわかりませんが、八幡製鉄所で、社員の保養施設として、「クラブ」を作ることに

なって、長女と次男である祖父の姉を若松に呼び寄せて、慰安所としての「クラブ」の営業をさせたようで

す。

 これが太平洋戦争が終わって、売春防止法ができるまで続いたようです。

 山口 瞳氏が言われるように「この商売をしたものは子孫が滅びる」のでしょう。

 なにしろ、付き合う人間は人さらいとか女衒とかが多かったのは必然であります。そして、福岡には筑

豊炭田がありますから、川筋者との接触もあります。

 私がラッキーに攫われて。監禁されたのが遠賀川添いの権蔵小屋です。若松で観光用の権蔵小屋を見て

何とも言えませんでした。裏日本気候の2月、祖母と二人で床なしの3畳ほどの馬糞紙でできた権蔵小屋で

の記憶は、私の記憶の始まりです。


 それと、東亜子や私の周りには白人様の面容をしたものが多いことも明治維新にさかのぼるのでしょ

う。それもこれらに関係あるのでしょう。この項で書きますのでよろしく…

 

スウィッチ・オン・・・運動会ができる部屋

$
0
0
 団地に住み始めて、住居もあんてして、私も子が出来て、仕事もやっとなんとかなるようになったので、

持ち家が欲しくなった。

 せめて、子が学校行くときには自宅から通わせてあげたいと思った。

 私に子が出来てほどなく三女が結婚して、江戸川の家に夫を連れてきた。江戸川の家は2軒あって、片方を

貸家にしていた。その貸家の方に三女夫妻が住んだ。

 それまでは貸家の家賃収入はちょうちんが取っていた。三女夫妻が入ってきたら、ちょうちんの家賃収入

はなくなった。

 私どもも持ち家が欲しくなった。マンションを購入しようとあちこち当たり始めて、かなり、広い物件を

見つけて、契約寸前までいったので、ちょうちんに見せておこうと思って、一緒に連れて行った。

 私はその時も、ちょうちんの子だと思っていたので、息子が自宅として、マンションを買うのを喜ぶだろ

うと思ったからだ。

 しかし、喜ばなかった。そして、三女に「あんちゃんは、運動会ができるような広いマンションを買う

からと言って。連れて行ってくれたよ」と、伝えた。

 そして、三女は「そのマンションは私が住んでやる」と言った。

 いかに間抜けな私でも、ふざけたことをいう女だと思った。「冗談ではない。なにを言っているのだ」

というと、その場はそれで収まったが、何日かすると二女を通して「この家と貸家を建て替えて、夫の母

親とちょうちんと一緒に住まわせて、母屋は三女たちが住むことにするので、私(二女)と、お兄ちゃん

(私のこと)とで、送金しろって言ってるのよ」と言う。

 「そんなのできるわけがないじゃあない!君だって、社宅にいるのにそんなことできるわけがないじゃ

ないか!!とんでもない!!」と、断った。

 それからは江戸川の家に行っても、二女の家に行っても険悪な雰囲気であった。叔父(本当の叔父です)

は「こんな風にしているのは教育上悪いからね」という。

 みんなが険悪な雰囲気であった。私は三女の夫に電話して「みんなが暗くなるし、お宅のお母さんやお

じいさんもおばあさんんも困ると言っていました。何とか、別の家で生活してほしいので、ここから出て

行って頂けないでしょうか?」と、お願いしました。

 二女を介して「せっかく来てやっているのに、とんでもない」との返事でした。

 おまけにちょうちんは孫であるはずの私の子に電話してきて毒づく始末でした。

 ケチが付いたマンションの購入はやめました。

スウィッチ・オン・・・青米三升

$
0
0
 私は広いマンションを買うのをあきらめて、今の場所に土地を買った。

 しかし、土地だけでは住むことができないから、生活は相変わらず団地住まいであった。それならば、私

どもに「送金しろ!!」 「送金!」と言わないだろうと思っていたが、そうではなかった。

 二女を通じて、相変わらずであった。

 おまけに何をどういう考えでそうしていた分からないのだが、裁判所に行って私を告訴するというのだっ

た。私はラッキーに電話して「なんで、俺を訴えるのかわからないが、あそこの女どもと××(三女の夫)

が金を送らないと訴えるとわめいているんだ」というとラッキーは「あの馬鹿ども、裁判ごっこをやりたん

だ。三女のだんなは駄目な奴だろう。だけど、あそこに住んでもいいだろう?駄目か?」という。

 「そんなことできるわけがないよ。××の母親とちょうちんさんは虎と狼だよ」というと「それもそうだ

な」という。

 この時私は××の母親がラッキーと関係あるとは思わなかった。今思うに××の母親は第一妻の子である

ようだ。

 私は××の実家を訪ねて、事情を説明して、××に自分たちで独立するように助言してくださいとお願

いした。

 ××の祖父はもとよりあそこに行くのは反対であったそうだ。「青米3升持ったら、婿養子には行く

な!」と言って激しく反対したにもかかわらず、行ってしまったそうだ。「お兄さん、厳しく言って出し

てください」とのことだった。

 その旨、伝えたが、険悪な雰囲気は相変わらずであった。

 

スウィッチ・オン・・・生命保険

$
0
0
 いつも、私に、三女やちょうちんの「送金しろ!」を伝えてきている二女には言わないのかというと決し

てそうではない。

 私がラッキーやちょうちんに攫われたのは記憶にない。しかし、二女は、かなり大きくなっていたので、

記憶にあるし、実親も知っていると思う。二女が来たのを、私も記憶している。戸籍をどういう風に作った

か知らないが、当時、どう見ても私と同じくらいの年齢だと思うが、4歳年下であった。

 それがラッキーとちょうちんの実子として今まで来ている。

 その二女が私に「送金しろ」というのは、自分でも苦しいからいうのだった。彼女は結婚していて、いわ

ゆる専業主婦だった。夫の社宅に住んでいた。

 当然、子ができるのだが、堕胎していた。堕胎は体に良くないと自分でも知っていて、私が注意すると

「そうなのよね~」と、寂しそうに笑うだけであった。

 そして、自分の本当の身分を知っていて、「育ててくれたんだから…」という。

 攫ってきた私には本当の身分を言えなかった彼らは、大きくなっていた二女には恩を着せていたのだっ

た。

 こんなこともありました。

 私が渡米中に日本で、航空機の事故があったのを見て、私に対して生命保険を掛けた。この頃、生命保

険に加入するときには被保険者には身体検査があったのだが、私が渡米していたので、別人をしたてて身

体検査したらしかった。

 そういう風にして入った生命保険であるが、私が死なないので、保険金ははいらないが、保険料は支払

わなければならなかった。

 帰国後すぐに結婚した妻にちょうちんは支払うように言ってきた。ところが、妻は保険契約の内容を詳

しく聞いて、ちょうちん受け取りの生命保険の保険料を支払う義務はないと断ったし、解約を望んだ。

 これは後から知ったのだが、この支払を二女にさせていた。

 こうして、二女と私に、ちょうちんは実子である三女と自分にどこかから連れてきた私と二女に送金さ

せようと必死だった。

 人というのは他人の子を犠牲にしても自分の子に貢ぎたいのですね。

 生きとし生けるものはそうなのでしょうか・・・

スウィッチ・オン・・・テレビ

$
0
0
 Y(三女の夫)の実家に行った後、何度も江戸川の家にも電話したし、彼の会社にも電話をした。

 電話しても話をする前に切ってしまった。

 三女から、「”せっかく来てあげているのに出て行けとはふざけている。もう、電話してくるな”と言っ

ているから、もう、電話をかけてこないで!!」と・・・・

 「そうなんだ…な!  だったら、金を送ってよこせ!送金しろなどと言わないよな!」

 {そんなぁ…おっかちゃんの面倒を見ているんだから、送金してよ!」

 「面倒見吊って、あれか?何にもすることないじゃァないか、おっかちゃんの姿を見ているだけで、何に

もすることないじゃァないか、ただ、姿を見ているのを面倒見るとは言わないんだよ。本人だっていつも

言っているじゃあないか ”誰も、来なくて大丈夫だから、一人にさせてくれ”って、要は君たちが、生活

費を出させようとしているのだろう。あそこは貸していて家賃を取っていたのだよ。それを君たちは家賃も

払っていないのだろう! 本人だって嫌がっているんだよ。早く出て行ってくれよ。彼に直接話す

るから…」と、こんなやり取りがあった。

 時間が出来た時に、江戸川の家に行って、直接、彼に話すことに決めた。

 

スウィッチ・オン・・・テレビ2

$
0
0
 ちょうちんはYの母親が若いことに驚いていた。何かを知ったようだった。

 少し、時間が出来たので、江戸川の家に行って、彼に直接話そうと思ったので、行くことにした。


 これもあとで知ったのだが、東亜子が「私の青春なかった。私の人生なかった!」という、野はここから

始まったのだ。

 初夏というか、寒くはなかった。江戸川の家に行くときは殆ど車であったが、何があるかわからないの

で、電車で行くことにした。


 「こんばんは!」と言って、玄関から居間に入った。

 居間にはちゃぶ台があって、かなり大きなテレビがある。そこで、三女夫妻とちょうちんは食事を一緒に

するらしく、食事の用意を三女とちょうちんがしていた。

 私が入っていくと、三女はうさん臭げに見ている。別に私は夕飯を食べるわけではなかったので、見てい

るだけだった。

 三女は隣家に向かって「ごはん出来たようぉ・・・」と、叫んだ、

 ややあって、Yが玄関から入ってきた。

 ちゃぶ台の間に座っている私を見て、無視するかのように・・・

 テレビのスウィッチを入れた。

 私は無視のスウィッチをオンにしたと解釈した。

 「ずーっと、出て行ってくれる言っているのに何で無視すんdなだ」と言って、顎に軽く正拳を出した。

 普通だったら、ここはラッシュをかけるところだが、軽くけりを入れようとしたら、・・・

 ここは川筋の女のちょうちんが台所から走ってきて、私の足にしがみついた。

 三女は動転して「、110番!110番と言って、電話機の方に走った。

 この間にyは玄関に走っていった。

 「おい!待て」と言っても聞かないので、仕方なく私も甥かKるために靴を履いた。何があるかわからな

いので、スニーカーを履いてきていた。

 yは、サンダル履きで全速力で走っていった。よほど急いでいるのか、履いていたサンダルが暮れかけた

空に高く上がった。

 ほどなく追いついたが、yは通りかかったおじいさんの周りをぐるぐると回り始めた。

 おじいさんは不審そうに見ているだけだった。

 私は「早く出て行ってくれよなぁ・・・」と、言うと「引っ越せばいいんでSづね」というので、「そう

してくれよな」と、言って駅の方に向かった。

 微かに家の方からパトカーの差入れらしき音が聞こえてきていた。


 後で聞くと、家のある路地いっぱいにパトカーがきたそうだ。三女は何Dも何度も110番するのでその都

度、1台づつ来るので、路地いっぱいになったそうだ。

 この件後日、兄弟げんかに署にあるパトカーが出払うほど呼んだ三女は叱られたそうだ。
Viewing all 202 articles
Browse latest View live


<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>