ラッキーらやちょうちんを両親だと思って成長した私は12歳からアルバイトをしてなにがしかの金銭を得ていた。
高校生の頃は昼間は郵便配達、夜は町内会の夜警と、昼夜を分かたず働いていた。働いて得た金はちょうちんに渡すわけではなかったが、いつの間にかなくなっていた。高校はその頃流行りの工業高校であった。中学校の先生もラッキーが三番目の妻のところで生活していて、母子家庭だと思っていて、工業高校を勧めた。
入学して、何日もしないで、いわゆる登校拒否で、押し入れに寝ていたが、アルバイトには出かけた。 その金をずーっと、ちょうちんは獲っていた。
二度目の渡米で、ベトナム戦争が始まって、アメリカも教会ばかりが景気が良く、もう、これまでかと思い、帰国して所帯を持った。
もちろん、家を借りて二人で生活した。子が出来て、自分の家を欲しくなり、家を建てた。そうすると、ちょうちんは私の稼ぎを取ることができなかった。
ちょうちんは、私が東京の家を出てから金をせしめることができなかったが、「送金!送金!」と、三女と一緒にいつも言っていた。
家内は「家賃がなくなっても、ローンができたのよ。送金なんてできるわけないじゃないの!それにあっちは隣のアパートから、家賃を取っているでしょう」と言って、相手にしなかった。
そんな中、子供だけで、留守番をいていた日だった。突然ちょうちんが我が家にやってきた。私どもが帰宅するときには、急いで帰る時だった。
娘が言うには「玄関のところに変な人がたっているなと思ったら、いきなり入り込んで、ダディちゃんの机や本棚をひっかきまわして、感じ悪いんだから・・・」と、
ちょうちんは我が家に電話など掛けてきたことがなかったし、孫にあたる娘んぽ姿を見ると逃げだしていた。
世間では、孫はかわいいというので、よく、連れて行っていた。
ここに越してきて、いくらもしない頃から、犬を飼っていた。最初に犬が野犬狩りにあった後、コリー犬を番いで飼っていた。
その頃、あまり東京には行っていなかったが、行くと、珍しくちょうちんが10キロ入りの米を土産として、くれた。
家内がその米をといでいると、「この米に変なものが混じっているのよ。小さくて
分離できないわ・・・どうしよう?こんなにあるのよ。捨てるのはもったいないし・・・」
悩んだ挙句、犬にやることにした。
豚の骨と一緒に圧力なべで煮てやると、喜んで食べた。こうして何日かたった。
朝の散歩で、雌犬のダイアナが突然倒れた。私が抱きあげて、家に連れて帰って、こと切れた。
雄犬のチャールズが、呆けたようになってしまった。そして、食事をしなくなった。
チャールズは、いつも、食事の時は自分の分を急いで食べて、ダイアナが食べているのを食べに行ったりしていた。
そんなチャールズを近所の皆さんも知っていたし、知人のご存じだった。
「あんなにダイアナちゃんからとって、食べていても、チャーちゃん、やっぱり、ダイアナちゃんがあんなことになってショックなんだね。食欲失せちゃったのよね。仲良かったのね」と、言ってくださった。
それから、何日もしないで、チャーはダイアナの後を追った。
ちょうちゅちんのところから、米をもらってきてから、一週間くらいだった。
チャーが死んだ翌朝、ちゃおうちんが電話をかけてきた。
「あら?居たの?」と、
「うちの犬がみんな死んだ」
「えっ…」と言って、受話器を置いた。
ご近所の皆さんも、知り合いの方も「チャーちゃんはやさしかったのね。ダイアナちゃんがいなくなったら、寂しかったのね」と、お悔やみを言ってくださいました。