東京オリンピッの翌年(1865年)、横浜港からサンフランシスコに向けて豪華客船で友人2二人とともに渡米しました。この旅費を得るために朝は国鉄の押しや、夜は警備員と昼夜を問わずアルバイトでした。豪華客船と言ってもディーゼルエンジンの真上でした。
この 2年後、帰国しましたが、この時は飛行機でした。復学して、学校を卒後yして、東京都に2年間勤めた後、再度、渡米した。この時は羽田から、飛行機でした。
この時はアメリカに行く場合、船で行くことは考えられなくて、殆どは飛行機でした。輪すかの間に飛行機になっていました。
この2年後、私が帰国するまでに日本では飛行機事故が何度か起こっていました。
かなりの犠牲者を出していました。
これにヒントを得たちょうちんは、私が渡米中にもかかわらず私に対して生命保険を掛けることを思いつきました。
在米中、それは頻繁に金の無心をしてきていました。その都度、送金していました。
そもそも、生命保険に加入するには身体検査があったようでしたが、それを別人にさせての生命保険への加入でした。
あわよくば、私が帰国の時に飛行機が墜落するのを願ったのでしょう。ちょうちんにとって、私を金に換えるのには生命保険はいわゆる金づるだったのでしょうね。
こんな風にされても、私はちょうちんが親だと信じていました。
これから2年後、私は無事帰国しました。
そして、所帯を持ちました。
ところが、ちょうちんは私への生命保険の保険金を得るには、保険料を支払い続けなければなりません。
妻は、この時、会社に勤めていました。
1年後、妊娠して、出産のために、休んでいるときに、私どものアパートにやってきて、「洋ちゃんの生命保険なのよ。保険料を払ってくれない?後で、支払いの用紙を持ってくるから・・・」と、
「まだ、生命保険には入りませんから・・・当面、子供ができるまでなにも考えませんから・・・」と、断った。
しかし、二女から、しつこく私に「お兄ちゃんの生命保険料を払ってよ」と、行ってくる。
私はこの時しつこいやつだなと思っていた。
そして、満期なったらしかった。
この時、私は誰が保険料を払っていたのか気にも留めなかった。
ちょうちんが亡くなったその夜、病院の控室で・・・
「あの女、金の亡者だったな・・・私に生命保険をかけて、受け取りを自分にして、早く死なないかなと思っていたんだよ」
すると、二女は・・・
「いいじゃない! あの保険料は私が払っていたのよ! ところであの保険は満期になったでしょう。どうしているのかな?」と
その満期になった金はちょうちんの実子である三女に、家を建てるための土地を買ったのだそうだ。
私がそれを知ったのはその土地買った後に、家を建てることができるか調べてきてほしいと兆人に頼まれて調査したからだった。
もちろん、私への生命保険の満期金だったとは知らなかった。