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Channel: 平成の巌窟王・福迫雷太氏はなぜ獄に
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ヒント

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 東京オリンピッの翌年(1865年)、横浜港からサンフランシスコに向けて豪華客船で友人2二人とともに渡米しました。この旅費を得るために朝は国鉄の押しや、夜は警備員と昼夜を問わずアルバイトでした。豪華客船と言ってもディーゼルエンジンの真上でした。
 この 2年後、帰国しましたが、この時は飛行機でした。復学して、学校を卒後yして、東京都に2年間勤めた後、再度、渡米した。この時は羽田から、飛行機でした。
 この時はアメリカに行く場合、船で行くことは考えられなくて、殆どは飛行機でした。輪すかの間に飛行機になっていました。
 この2年後、私が帰国するまでに日本では飛行機事故が何度か起こっていました。
 
 かなりの犠牲者を出していました。

 これにヒントを得たちょうちんは、私が渡米中にもかかわらず私に対して生命保険を掛けることを思いつきました。
 在米中、それは頻繁に金の無心をしてきていました。その都度、送金していました。
 そもそも、生命保険に加入するには身体検査があったようでしたが、それを別人にさせての生命保険への加入でした。
 あわよくば、私が帰国の時に飛行機が墜落するのを願ったのでしょう。ちょうちんにとって、私を金に換えるのには生命保険はいわゆる金づるだったのでしょうね。
 
 こんな風にされても、私はちょうちんが親だと信じていました。

 これから2年後、私は無事帰国しました。
 そして、所帯を持ちました。

 ところが、ちょうちんは私への生命保険の保険金を得るには、保険料を支払い続けなければなりません。
 妻は、この時、会社に勤めていました。
 1年後、妊娠して、出産のために、休んでいるときに、私どものアパートにやってきて、「洋ちゃんの生命保険なのよ。保険料を払ってくれない?後で、支払いの用紙を持ってくるから・・・」と、
 「まだ、生命保険には入りませんから・・・当面、子供ができるまでなにも考えませんから・・・」と、断った。

 しかし、二女から、しつこく私に「お兄ちゃんの生命保険料を払ってよ」と、行ってくる。
 私はこの時しつこいやつだなと思っていた。

 そして、満期なったらしかった。

 この時、私は誰が保険料を払っていたのか気にも留めなかった。

 ちょうちんが亡くなったその夜、病院の控室で・・・
 「あの女、金の亡者だったな・・・私に生命保険をかけて、受け取りを自分にして、早く死なないかなと思っていたんだよ」
 すると、二女は・・・
 「いいじゃない! あの保険料は私が払っていたのよ! ところであの保険は満期になったでしょう。どうしているのかな?」と

 その満期になった金はちょうちんの実子である三女に、家を建てるための土地を買ったのだそうだ。
 私がそれを知ったのはその土地買った後に、家を建てることができるか調べてきてほしいと兆人に頼まれて調査したからだった。
 もちろん、私への生命保険の満期金だったとは知らなかった


 

怯え

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  例えどんな事情があろうとも分の子でもないのに戸籍に入籍して、成人してからも、真実を告知しなければ、それは連れてきた子を殺害したのと同じであると私は思っています。
 現に私どもの場合でも、何度か、ラッキーやちょうちんは私のみならず私の家族ぐるみ金に換えられればという思いがあったようです。

 私どもだけでなく、私の両親に対しても苦しい思いがあったようです。私に子が出来た時に、もちろん、私の子はラッキーやちょうちんには面影のかけらもなくて、それどころか私の両親によく似ていて、苦しい思いで見ていたようです。

 このこと、私の子は子供の時から気付いていて、ラッキーとちょうちんのことを「あの方たちは私の祖父母か?」と、疑っていたようです。

 このことに関していろいろありました。これから少しづつ・・・この項で

再来

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  田小女姫こと藤田東亜子が殺害されてから、24年が経ちます。

 福迫雷太氏は28歳の時に逮捕されてから、今年で52歳になります。

 当初、私は戸籍通りに東亜子と私の関係は異母姉弟だと思っておりました。ところが関係者を当たっているうちに父母同じの姉弟だと知りました。
 二人を知る方は、それとなく実母の方向を指さして下さいました。その方向に向かっていくと、・・・・・涙枯れてしまった86歳の老女にたどり着きました。
 ただ見つめ合っただけで、すべては通じました。血を感じるというか・・・すべてが分かりあえるのでした。
 わが子は母の再来かと思いました。
 母は私に・・・自分自身をくれたのです。

藤田小女姫殺害事件の犯人像

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 あの日から、今年で、24年が経ちます。

 私の中では犯人像は、大分前に、こんな風ではないかと想像しております。東亜子と私を戸籍上で長女と長男にして、東亜子はラッキーの借金の形として昔の吉原関係者に差し出した。私は馬鹿養子として働かせて、金をせしめるという目的だった。

 ラッキーは自分の戸籍には自分の子供が誰も持記載さr手ていないが、戸籍に載っていない子供を含めて、多数いる。
 このことを私の母となっているちょうちんは「ラッキーさんには子供が数えきれないくらいいるよ。あんたらの思っているような人ではなか」と、よく言っていたが、このちょうちんも戸籍にのっているのは私の妹でラッキーの三女になっているのだけです。
 
 こうして、沢山の子供たちが成人して、自分の親を知って、「どうして捨てたのだ?」と攻め立てたので、ラッキーは「コトトメの財産はわしのものような様なものだ」と言ったのだろう・・・これは想像ではなくてラッキーは私にもよく言っていた。
 ところが、あまりの数の多さに、彼らの間で争いがおこった。
 その結果、殺害されるものとその犯人に仕立てられるものとに分かれたということでしょう。

 私も最初福迫君はどこから来たのかわからなかったが、手紙のやり取りをしているうちに不審なことがあって、・・・あぁ・・そういうことだろう・・・と思いました。

 

赤ん坊の取り違え

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 今日、テレビで、産院で、取り違えられた男性が「自分を産んだ人に会いたい」と、言っていると、放送していました。
 私や東亜子の場合は、人さらいですが、取り違えも同じでしょうね。ただ、悪意がなかったのでしょうが、結果はたいへんなものがあります。

 テレビで見ていて、胸つまるものがありました。赤ん坊の取り違えは子供のほうyも辛いですが、親の方もやりきれないでしょう。

 私どもの場合は、最初、ラッキーの借金のために東亜子を攫って、いわゆる女衒に渡して、謝金を長夏至にしたのです。私の方はいわゆる馬鹿養子としです。
 取り違えの場合、単なる過失ですが、結果はみんなで辛い思いをしたでしょうね。まして、子供の方に子ができると辛さはさらに増すでしょう。ラッキーもちょうちんも最後は自殺でした。
 


祖父母の最後・・・祖母

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 昭和21年2月、私の記憶の始まりは、遠賀川沿いの権蔵小屋の中であった。
 
 権蔵小屋とは、川筋者が住んでいる小屋で、若松にある観光権蔵小屋は6畳ほどの広さで、床がない掘っ立て小屋である。
 そこで、私は後で知ったのだが、祖母と一緒の記憶がある。もちろん、その人が祖母であったと知るのは、後年のことである。
 冬の福岡は寒さ厳しく、床のない掘っ立て小屋で3歳の幼児と60歳(推定)の老女がいた。
 外では、「馬糞紙では駄目だ。トタンにしろ・・・」の叫び声がしていた。
 つまり、風が吹き込むので、馬糞紙(いまでいう下ボール紙)で塞ごうとしていたが、トタンにしろと言っていたのである。
 ここへ、叔父になっている(実際には私にとって父違いの兄)が台湾から帰還して、この権蔵小屋にいる祖母と私は見付けたのである。
 この時、祖母だけを彼の勤めていた国鉄の官舎に連れ帰った。
 なぜ、私は連れて行ってくれなかったと言えば、衛生兵だった彼が見て、どうせ、私は助かるまいと思ったようだ。なぜなら、このブログの最初にあるような姿をした私だったからだ。到底、助かるまいと思ったようだ。
 それからの記憶がなかったのだが、数えてみると、2年後の昭和23年だと思うが、小倉の明治鉱業の社宅に、連れていかれていた。そこに祖母がいた。
 やはり、2月の寒い頃だった。
 私は祖母と同じ布団で、寝ていた。いろいろ、話しかけてくれた。アルバムを一緒に実て、長崎の眼鏡橋が映っていると「この足がよくなったら、ここに連れて行ってやるからな・・・」と、言っていた。
 もちろん、この言葉をラッキーが聞かないわけはなかった。ちょうちんもそうだと思うが。私に実親を知らせないようにするには邪魔であったのだろう。

 彼らは祖母に死を与えた。
 祖母の配給があったにもかかわらず、祖母は餓死した。
 祖母は私の最後の肉親である。

 ちょうちんは、この事、心にひっかるものがあると見えて、私が結婚して、妻に「お父さん(ラッキーのこと)が、「働くものが食べるのだというから・・・そうした」と、言い訳のように話していた。
 つまり、祖母の配給はラッキーが食べたということでしょうが、私は二人で食べたと思っている。

 こうして、私は最後の肉親と別れた。
 

東洋と三洋(太平洋、大西洋、インド洋)

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 藤田小女姫こと藤田東亜子の名前のいわれは、私どもの実の父が名付けたのだろうと思います。
 実の父は労働運動をやっていて、何度か、逮捕されたりしていたようです。いわゆる大東亜共栄圏と騒がれていた頃、中国にわたっていたようです。
 母とは単なる芸者とお客ではなくて親戚関係であったそうです。

 東亜子の方は大東亜共栄圏からとったようです。
 私の洋三は太平洋、大西洋、インド洋の三洋でしょう。

 このいわれをラッキーは自分が考えたようにいつも話していましたが、そいういうことの思いつくような男ではなかった。

 東亜子は亡き後、この事を知りました。東亜子の写真にもかなり残されています。東亜子もこの父の友人たちのおかげで、世に知られるところとなったのでしょう。

 しかしながら、当時、母は日本人と言えば大概の方が知っていると言わる方の後沿いになっておりました。その方にご迷惑をかけてはとの思いから、辛らかったでしょう。
 

忘れられて

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  最近、福迫君と連絡が取れなくなっています。

 最初に、福迫君を見たのは、アメリカの送致するために東京高等裁判所で送致のための審判をすることになって、被害者の遺族として、審判を傍聴しました。
 その時、その審判で印象に残った彼の証言は・・・・吾郎君(被害者)と僕とは、他の人に双子のように似ていると言われています・・・と、証言していたことです。

 つまり、・・・双子のように似ていて、仲の良い両人なのになぜ吾郎を殺害する理由がないであろう・・・という主張でしょう。

 私は故・藤田吾郎と福迫雷太両人にお目にかかったことがないのでわかりませんが、この歳月をかけて、彼の両親や親戚などにお目にかかったりしてみると、確かに故・藤田吾郎との関係が深いと思いました。
 
 しかしながら、養母となっていた藤田東亜子は生前、・・・吾郎は実子ではないかといわれて・・・
 ・・・すこ~~しの血は繋がっているかもしれないが子供ではありません・・・と、すこと̪「し」間をなが~くして、答えてそうです。
 今、私も叔父かと言われば、同じに答えるでしょう。
 つまり、ラッキーは福迫雷太君と藤田吾郎と、深い血縁関係であったということでしょう。
 このこと、福迫君の近いご親戚の方も言っておられます。

 つまり、ラッキーは故・藤田吾郎を藤田小女姫こと藤田東亜子の元に押し込んだというわけです。私にとっても甥なのですね。日本の戸籍って、なんだろう?
 

芸者の子

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  このブログに掲載している芸者姿の写真は私どもの母です。東亜子は母が芸者であったことは知っていたのこの写真をベッドわきのサイドボードにおいてあったのでしょう。私はこの写真を複写して、拡大し、玄関の靴箱の上におきました。

 昔、芸者が子を産んだら、自分の両親に子を育ててもらうのが普通だったようです。これも東亜子殺害の後に知ったことですが、私どもには兄がいます。もちろん、父違いです。
 兄の場合は結婚を前提としていたようですが、相手の家族の芸者への差別によって、破談だったようです。落籍されなかったようです。東亜子が藤田小女姫として世にでてから、この兄の父に会っている写真が出てきました。

 つまり、私どもは祖父母の家で育っていたようです。祖父母は長男(私どもの伯父)と一緒に生活していて、長崎にいた母とsぽ父母の家を女中さん(今でいうお手伝いさん)が、長崎と戸畑を往復していたようです。

 ラッキーは私に繰り返し、芸者がいかに下賤なものであるか常に言っていた。

 攫った後、幼時の記憶がない私には実親を秘匿するためにいろいろ工作したし、記憶のある東亜子に会わせることは東亜子や私から金銭を取ることができなくなるし、星の数ほどいる自分の子孫に東亜子のところから、金銭を貪ることができなくなると考え、真実の血縁関係を知らせないように命を懸けたのだろう。

 ところが、私に子ができると自分の孫(例えば、東亜子のところに押し込んだ吾郎や雷太君など多数いる)のと大分違うので怯えが始まった。

 ならば、どうするか・・・

人と人との間

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  私は日本の戸籍に騙された思いが強いです。「藤田小女姫殺害事件」が起きた原因の一つだと思っています。

 姉が殺害されてから、自分の身辺や肉親について尋ね歩きました。私共が生まれた背景などを知りました。
 戦争直後のことではありますが、平和であってほしかったです。叶わないまでも自分の出生について知りたかったです。

 かつて、人とは人間と言うように人と人との間に生きるからだと聞いたことがあります。
 
 山口瞳『血族』にも書かれていますが、・・・・・恨んではいあないが善意で養子縁組をして戸籍に事実を書かないで実子として入れても、事実だけは伝えてほしかった。・・・と書かれていますが、全くその通りです。

 人間とは人と人との間であるから、動動物としての「名前」のただの」「人」ではなく「人間」というのだとかつてどなたかのご教示いただきましたが、改めて実感しております。

 まして、私どものように悪意を持って、拉致したならば「殺害」と同じでしょうね。
 ラッキーもちょうちんも最後は激しい怯えの連続でした。

 日とを誘拐して事実を教えないままにした人たちの晩年のことを・・・・

怯え

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 このブログも長い間書いていますが、姉・藤田小女姫こと藤田東亜子がなぜ殺害されたか?
 そして、どういう人物たちが東亜子と養子・吾郎を殺害し、福迫雷太君を犯人として獄に送ったかを総括しなくてはなりません。
 長い間の聞き込みや私の来し方を考えると浮かび上がってきます。

 犬や猫は子孫を知らないものが多いと思いますが、人を犬猫のように扱っているのが東亜子や私を攫って、金に換えたり、奴隷tとして働かせたり、稼いだ金銭を奪うことでしょう。
 気の滅入ることばかりで、疲れますが、頑張ります。
 
 解明したことを書きます。よろしくお導き下さい。

 

物語

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 私が自分の本当の身分を知った時。同じく、ラッキーやちょうちんとは無関係な二女に話しました。
 驚いたことに二女は平然として、「そんなの、今頃。わかったの?あれはね!物語なのよ。実際のとは関係ないの!」いう。
 そういえば、二女が私どもの前に現れたのは小学校に入るちょっと前と言うくらいだった。それなのに学校には行かなかった。

ラッキーの戸籍はこんなのでした。

藤田ラッキー       第一妻・・・・長女・東亜子

               第二妻・・・・長男・洋三
                       二女・×子
                       三女・▽子

               第三妻・・・・四女・○子

 こんな風になっていました。都合5人の子が記載されていますが、ラッキーの子は誰もおりません。

 しかし、ラッキーに子がいないわけではありません。

 ちょうちんは口癖のように妻と私に「あんたら、ラッキーさんのことを勘違いしているよ!!あの人に何人子供がいるかわからないんだから・・・数えきれないよ」

 三人の妻だけでもあまりいないと思うけれど、こんなんでした。
 よく、こう言われていました。
 「お宅のお父さん発展家だね」って、

 第一妻はラッキーより、一回り12歳年上、第二妻のちょうちんはラッキーより一回り12歳年下です。
 つまり、第一妻と第二妻であるちょうちんとは24歳差です。

女王陛下

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 よく、特別養子縁組制度などで、「わが子と同じように育てます」とか「愛します」とか言って、養子縁組をして、実親を秘匿しますが、私の場合はちょうちんには実子として三女がいました。
 
 先の記事で、ラッキーの戸籍簿を書きましたが、ちょうちんにも別に子供がいた。その子の戸籍上の親に対して、何かと金銭的にラッキーの僅かな収入(正しく言えば私の実親からいわば身代金としてとっていた)から、持っていっていた。

 人間は他人の子とわが子を同じに扱うことができるかできないかのテストケースのような環境だった。
 
 私が体験したのはちょうちんの実子である三女は二女と長男である私にとって女王陛下であった。
 このような環境は三女にとってもよくはないと思う。

 特別養子縁組制度は養子になったが最後実親を知らせることがないそうだが、これは犬猫扱いではないだろうか・・・
 
 私は実験ケースのような環境で育ったのだ。

 はっきり、言います。
 藤田小女姫殺害事件は、私に実親や実際の身分関係を秘匿することで成立したのだと思う。
 
 人間として、生まれものの実親などを秘匿するか、でたらまな身分関係を言うのは、犯罪に加担していると思っています。

 私は生前の小女姫に会うことができませんでした。
 これについて、姉の身近にいた方に「姉のまわりにはどんな人がきて、どんな風だったのでしょうか?」伺いました。
 「それは大変だったのよ。みんな、お金をむしり取ろうという人ばかりだったわよ。あなたが来ていたら、事件は起きなかったか、もしくは、あなたも一緒にコトトメちゃんみたいに殺されたかもわからないわよ」と、・・・

 要するに我々、姉弟は、犬猫だったのでしょうね。戸籍って何だ?でたらめならつくるな!!
 さもなくば「真偽は各自で調査のこと」と、但し書きを付け加えなければいけないでしょうね。

 

どこから来たか?

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 人は自分がどこから来たか知る権利があると思う。

 藤田小女姫殺害事件を私なりに推察しました。それと、事件直後姉の近くでいろいろお世話していただいていた方々のお話を元に犯人像を推察してみました。

 私どもの戸籍上の父親になっていた人物(名前をラッキーとしています)は、祖母のこではあるが、祖父の子ではありません。
 日露戦争が終った頃、祖父母は八幡製鉄所の操業に参加した祖祖父の元に阿波から、行ったようです。
 祖父母は四国の田舎から出てきたばかりで、珍しかったのでしょう。出歩いたようです。その時、祖母は兄のところにいた「人さらい」に襲われて、ラッキーを産んでしまいます。
 そうするとその人さらいの戸籍ではなくて、夫である祖父の戸籍に入ってしまいます。祖父母はラッキーの入籍が嫌であったのか、小学校に入学する年齢になるまで、放置してありました。
 それでも、小学校に入学するときに誰かが、四国に行って入籍したようです。

 強姦によってできた子もそうですが、強姦された女性は悲しいことに憎むべき男の面影がある子を産んでしまうのです。
 ラッキーはいつも「ばあさんは、わしが寝転んでいたりすると蹴るんだよ。何にも云わないで、蹴るんだから…」といつも私に言っていたが、こういうことでしょう。
 私もラッキーの父親の「ブン」をよく知っていますが、言われて見れば分とラッキーはよく似ていますし、緩慢な動作はこの親にしてこの子ありと言えます。

 戸籍は人を苦しめるためにあるのでしょうか・・・

新犯人像

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 長らく、ブログを書いてきましたが、私の中では真犯人の面影は、私の身分を知ったころから、推測できました。

 事件後、東亜子の知り合いだった多くのジャーナリストの皆さんんのごい絵kンなど伺うと私の考えていたことと一致します。

 事件後、私は、四国の阿波を訪ねて、祖父と祖母のことをいろいろ教えていただきました。

 ラッキーは、自分の身分を隠すためだったか、写真などを隠していました。ちょうちんと別れて、荷物を新らしい住所に越していってからも、時々やってきては,、何か、持って行っていました。
 ですから、私は祖父母の写真を見たことがありませんでした。もちろん、どんな家に住んでいたのかも知りませんでした。

 晩年、病院をサロンのようにしていたラッキーが死んで、おっつけ、ちょうちんがガンになりました。

 ちょうちんのアルバムに祖父が映っていました。もちろん、私は写真の男が祖父であるとはわかりませんでしたが、妻が「この人、あなたに似ているわね。ひょっとしたら、おじいちゃんかもね?」と言うのです。
 次に「でも、変なのよね。だってお義父さん(ラッキーのこと)には、全然、にてないもの・・・人種が違うみたいだよ」と言う。
 しかし、その写真にはちょうちんも写っていた。

 四国の阿波や讃岐に行って、写真の男が、祖父であるかどうか確かめに行くことにした。

 四国には、祖父の姪がご健在であった。
 件の写真を見ていただき、「これは私のじいさんですか?」と質問したら、「そうや、○○おじやわ・・・あんたによう似っとたわぁ・・・」と、
 
 この写真は裏書に昭和12年撮影時されていた。大勢の女性に囲まれた祖父は車に乗ってきたらしく今でいうわが御社のような車で運転手が一緒だったのか、祖父よりは若い男性と並んでいた。

 私の大叔母にあたる方は「○○叔父は、なんで、あのときに九州に行ったのか、みんなで止めたのに、・・・あの時、行かなければよかったのにね・・・」と言って、残念がった。

 ラッキーの実の父親は、戸籍上、何にも記載されないで、祖父の子として、記載される日本の戸籍制度は???

蹴り

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 東亜子が殺害されるまでに、接した肉親は、小倉でラッキーとちょうちんにより、餓死させられた祖母です。

 裏日本気候の小倉の冬は寒く、暗かったです。5歳だった私は祖母と一緒に寝ていました。子供でしたから、その時は、わかりませんdねしたが、確認すると、昭和23年です。餓死させたことはちょうちんが気になっていたらしく、私どもが結婚した直後、妻に 「××(ラッキーのこと)さんは、,『働くものが食べるんだ』と、言って、食べていた」と、弁解がましく、祖母の配給を盗って食べたことを言っていたそうです。

 この祖母は、東亜子が殺害されて、実の母に会うまでに接した肉親です。
 
 アルバムを見ながら長崎・眼鏡橋の写真を指さし「五日、ここへ連れて行ってあげるからね」と言う言葉が忘れられません。

 これから程なく祖母は息絶えました。幼児と言ってもいいくらいの私はこの言葉から何日後であったからわかりませんでした。寒い冬でした。小倉の社宅には火鉢が一つで、寒かったことが記憶に残っています。

 四国の本家や祖母の実家ではラッキーの存在を知りませんでした。というのは、祖母は阿波の田舎から、福岡の都会に出てきて、祖母の兄だったヤクザのところに出かけて、そこで、襲われたのです。
 ですから、ラッキーは祖父の子ではないのです。
 
 ラッキーはこの祖母のことを私に何度も何度も愚痴めような、言い訳めいたように話しました。

 「ばあさんには、よく、蹴られた! おれを見ると、ものも言わずに蹴るんだよ。見るたびにそうなんだから・・・横になっているものなら、そりゃ・・やってらんかったよ」と、・・・
 つまり、祖母は、ラッキーを最初から嫌悪していた。

 このことを妻に話すと、先の戦争で、外地から引き揚げてきた話として、女性が襲われて、引き揚げてきてからの様子を聞いた話として、引き上げの途中で襲われて生まれた子のことを話した。
 「おばあちゃん、かわいそうだったわね。『女性は悲しくて、襲われて生まれた子が、憎むべき男の面影を写しのが生まれるんだよ』って、言っていたのよ。まさにその通りだわね」と、

 ラッキーは自分が蹴られたのを恨みに思ったのだろう。で、配給を奪ったのか?

 祖母は美人の里に生まれて、そんこでも評判の美人であったそうだ。田舎から出てきて何もわkらない祖母が物珍しくふらふらしていたら、人さらいを生業にしていたブン(ラッキーの父)が襲うのは成り行きだったのだろう。

 これが藤田小女姫殺害に至る最初の出来事だったような気がする。

 

同姓同名

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  もう、半世紀近くになるのですね。ベトナム戦争が、激しくなり、アメリカでも、戦死者や負傷者がでて、わつぃどものように市民権のない物でも、軍隊に行けばアメリカの市民権がもらえるということで、友人たちの中には、ベトナム戦線に出かけたのもおりましたが、私は帰国することにしました。

 突然の帰国でしたが、所帯を持つことにしました。

 もちろん、この時も、戸籍通りに、ラッキーが父でちょうちんが母だで、二女と三女は同腹のしまいだと思っていました。
 現在の妻と結婚することは、滞米中に決めたことでした。

 2度目の渡米の時に、彼女は羽田まで、見送りに来ていて、ラッキーとちょうちん会っていました。しかし、会ったというよりは、見た。と言うくらいでした。

 押し迫った暮に、帰国して、勤めていた妻が正月休みにるるので、休みのうちに新しい住所に引っ越して、ささやかではあったのですが、いわゆる新婚生活に入りました。

 この時は、ラッキーはちょうちんと離婚して、第3妻と一緒に生活していましたから主に、妻と顔を合わせるのはちょうちんでした。

 今思うと、変なことばかりでした。悔やまれます。
 ちょうちんは妻に、妙に遠慮しているというか、怖がっている風でした。
 妻に言わせると、「なんででしょうね?○○子さん(三女のこと)が、あなたに電話すると、つないでくれなかったようなこともあったけれど、お義母さんは、そんなことはなかったのに・・・・ね?」と、

 東亜子の死後、私は母に会いました。いろいろ探し回って、マスコミ関係者の皆さんや法律関係者の方のおかげで,母に会うことができました、
 母は、さる著名人のあと沿いでした。

 著名なジャーナリストの方は、私の物心ついて初めて会った時の情景を詳しく尋ねました。
 そして、私が○○の奥さんとしか知らないので、フルネームを教えてくれました。

 驚いたことに、妻の名前と全く同じでした。つまり、時を違えて、同姓同名でした。
 ちょうちんは妻の名前に怖がっていたのだろうか・・・それとも、私が自分の母の名前を知っていたとでも思ったのだろうか?・・・
 

富士額・・1

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 藤田小女姫殺害事件は私が50歳の時でした。誕生日の関係で姉は56歳でした。

 その時まで、私は戸籍通りに、ラッキーとチョウチンの子で、姉はラッキーと彼の第一妻のこであるから、つまり、腹違いの姉と弟だと思っていました。
 
 小学6年まで、福岡の炭鉱で過ごした私を福岡の方は村のほとんどが、ラッキーとちょうちんの子ではなくて、どこからか連れてきた子であるとご存知でした。
 そのことを本人である私に行ってくれる方はおりませんでした。

 ただ、私に「おとうさんやおかあさんは好きか?」と、謎をかけてくる方がおられたことは覚えています。
 でも、私は答えなかったように思います。

 姉と私は5.5歳の差がありますから、当然、姉は知っていたわけです。でも、ラッキーんぽ第一妻に「おかあさんとよべ!!」と、暴力沙汰で、迫られたようです。
 占い師として、世に出た後、ラッキーの第一妻は東亜子の母として人前に出たことはなかったようです。
 事件後、数少ない第一妻にあった方に「東亜子の母親はどんな人でしたか?」と、伺うと、なにか、言いにくそうに「ちょっと ねぇ~、  なんか外国人のようでした。それに 話がぁ・・・」と言われました。
 私は、ラッキーを思い出し、なんとなく理解できました。
 ラッキーはおそらくロシア人との混血でしょうから、白人様のマスクでした。
 ラッキーの周りは白人みたいな顔をしたのが多かったからです。これには訳があって、明治まで遡ります。

 福岡にはもちろん、ほぼ、日本全国と言っていいくらい調べて歩きました。
 その結果、ようやく、自分は誰であるか、わかりました。

 そのときまで、犬猫と同じであったのです。叔父だと思っていたのが兄であったり、東亜子の他に腹違いの姉がいたり、父違いがいたりでした。

 で、産みの母だと思う人に会うことができました。その方は、間違いないと思います。
 というのは娘に瓜二つです。
 娘は子供のころからちょうちんが祖母ではイことを知っていたそうで、悩んでいたそうです。
 「チョウチンさんは、私のおばあちゃんではないよね・・・」と、妻に言っていたそうです。
 「そうなんじゃあないの?だって、ダディちゃんもそう言うし、戸籍にもそう書いてあるわよ」と答えたそうです。
 「じゃあ、私は あんな顔になっちゃうの? どうしよう・・・でも、ダディちゃん似てないよね。・・・困った!!」

 私どもは人として生まれたことを分断されたのです。
 

人さらい

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 私どもが子供の頃(太平洋戦争が終わって、いくらもしない頃)、は大人たちが、よくこんな言い方をしていました。
 『そんに遅くまで遊んでいると、人さらいに攫われるから、、早くうちに帰りなさい』と、

 もちろん、私の親のふりをしていたラッキーとチョウチンもよくこのセリフを吐いた。

 私が所帯を持ってから、たまに妻と一緒にチョウチンのところに行くと妻にこういったそうだ。
 「飯塚のブンさんは、いつも、こんな格好で、出かけるのよ」と、言って真似をした。
 その姿は川筋者として、親分のあとについていくときの格好だ。

 ブンと言うのはチョウチンの父親(おそらく違うのでしょうが…、戸籍上)で
になっている)であるが、ラッキーンー実の父である。白人様のマスクをした男であった。
 後に、聞くと、少し、知恵遅れ風であって、川筋者の権蔵小屋に住んでいた。
 つまり、出かけるというのは人攫いに出かけるのである。
 ラッキーの父親は人さらい稼業であった。

 私の最後の肉親である祖母は阿波の美人の里の出で、わけても美人で名が通っていた。阿波の大地主の娘で、西山の頂きに住んでいて、東山に住んでいた祖父と歯どうして知り合ったかはわからなかったが、この辺境の地から大都会である博多に来た時にブンに襲われて、ラッキーが出来たようであった。

 強姦で生まれた子は、悲しいかな、母親に憎まれた。なぜなら、忌まわしい男に似ているからだろう・・・

 こうして、ラッキーは祖父母の家には入ることができなかった。ところが、戸籍は祖父の子になった。
 実際にはブンのところにたのだが・・・・

 たまに、母親のところに行くと祖母は、ラッキーを蹴った。
 このこと、ラッキーは私に事あるごとに言った。
 妻にも言ったようだった。
 妻は女性であるから、「そりゃあ、当たり前でしょう。憎むべき男に似ているんだから、なんでラッキーさんはブンさんを懲らしめてやらなかったの?」
「〈俺が懲らしめてやるから、・・・ね!)と言って、成敗してあげればよかったのよ、おばあちゃんかわいそう!!!、悔しかったろうね。日本が
敗戦で、満州から引き揚げてくるときに大変だったんで、そんな風にできた子がたくさんいたみたいなで、・・・女って悲しいよね。忌まわしい男の子が出来てしまうなんて・・・」と、

 
 

なぜ、占い師は殺害されたか?

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 姉・藤田小女姫こと藤田東亜子が殺害されてから、もう、すぐ四半世紀が経とうとしています。
 亡くなったものの年齢を数えても、仕方ないのですが、56歳になったばかりでした。もっとも戸籍は信用なりませんが…

 私のブログも起こったことをつらつらと書いてきました。それと、戸籍など全く信用ならないと知ってから、自分の身分が知りたくていろいろ調べて全国を回りました。
 結果、いろいろ分かりましたし、自分の実親も知ることができました。

 事件については、姉・藤田東亜子と私は、両親同じの姉・弟です。
 で、事件後東亜子の近くにいて親しかった方に、
 「東亜子と私が一緒にいて協力し合えば事件は起こらなかったか?」と尋ねたところ・・・
 「事件が起こらなかったかもしれないし、…・乃至は貴方も一緒に殺されたかもしれない。それほどr大変だったのよ」とのことでした。

 私の方で起こったことを書いてきましたが、何しろ、長い間のことであれもこれもとわかりにくいので、かいつまんで、書きます。
 残された時間も少ないので、・・・・
 
よろしくお願いいたします。


 
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